「このマンション、壁が薄いのかしら」

柳原壮一郎は、その言葉遣いを下品だと思っていた。

長年日本文学の研究者として国立大学の教授をつとめた彼にとって、若者言葉に価値を見いだすのは難しく、単に耐え難い雑音としか思えなかった。

「このマンション、壁が薄いのかしら。防音性が高いっていうから、わざわざ高いお金を払ってタワマンにしたのに……」

妻の佳世子はそう言ってため息をつく。

ため息をつきたいのはこっちのほうだ、と思いながらも、壮一郎はつとめて冷静に言った。

「マンションの造りの問題ではなくて、そもそも隣がうるさすぎるんだよ」

「でも前はこんなじゃなかったわ」佳世子が言った。

「そうだね。酷くなったのは先月からじゃないか」

「そうね。あたらしい人が引っ越してきたから」

佳世子はうんざりした表情で、大げさに肩をすくめた。

おそらく、隣の部屋の住人が挨拶に来なかったことをまだ気にしているのだろう、と壮一郎は予想する。伝統や礼儀作法を重視する佳世子にとって、引っ越しの挨拶をしないなど、絶対に許せないことらしかった。

「隣の部屋は賃貸に出しているみたいだし、人が定期的に入れ替わっているみたいだから、多少行儀の悪い住人が来ることもあるだろうさ」

そう壮一郎が説明したところで、佳世子の機嫌は治らなかった。

「もう夜中よ。さすがに酷すぎるから、あなたちょっと行って注意してきてよ」

「ええ、俺が?」

柳原壮一郎は妻の提案を嫌がった。穏やかな性格の彼は、何かトラブルがあった場合に、矢面に立ち解決に奔走するタイプではなかった。

「弱ったな。こういうのは住人同士で話すとトラブルになるし。あとで管理組合に報告してなんとかしてもらったほうがいいよ」

「そんなこと言ってたら、ずっとこのままよ。このマンション、管理組合があんまり機能してないし」

そう言われると壮一郎は反論できなかった。投資目的のオーナーが多く、管理組合が機能しているとは言い難いのは彼も良く知っていた。

「まあ、そうだけど……」

「やんわり、穏やかに言えば角も立たないし、大丈夫じゃない? 若い人だから、隣まで聞こえてると気づいてないのかもしれないし」

佳世子はそう言うと、壮一郎をドアに向かって押し出す。

「ちょっと、おい……」

「お願い、行ってきて!」

佳世子に押し切られると、壮一郎は断れなくなった。