意図的な留年という選択

夏美が疑問を口にすると、さくらは小さくうなずいた。

「ごめんなさい。レポートは期限を過ぎて出せなかったんじゃなくて、出さなかったの。留年の1年を勉強に使いたいと思って。院試の準備もできるし、それに、バイトで少しは学費を用意できるかなって」

さくらは少し間を置き、視線をまっすぐにした。

「それと……お母さんに大手に行けって言われるの、ずっと苦しかった」

「さくら……」

「お母さんの希望を無視するには、卒業を遅らせるしかないって思った。だから、留年を選んだ」

娘の決意が胸に響く。

初めて、彼女の本音と向き合えた気がした。

夏美はしばらく黙ったまま、テーブルの上を見つめた。傍らには参考書と過去問のコピーが積み上がっている。

「……私ね」

やっと発した自分の声は、いつもより少し低い。

「昔の自分ができなかったことを、さくらに叶えてほしいって思ってたのかもしれない」

さくらは何も言わず、夏美を見つめている。夏美は彼女の視線から逃げずに続けた。

「大手に就職して、男に負けないキャリアを手に入れて……そうすれば幸せだって。その理想を、あなたに押しつけてた。ごめん」

「うん」

さくらがゆっくりと瞬きをして頷いたのを見て、夏美は微笑んだ。

「さくらが院に行きたいなら、応援する」

「本当に?」

「本当に」

言い切ると、さくらの肩から力が抜けていくのがわかった。

「ありがとう、お母さん」

「うん、ただね……」

夏美はスマホで大学の公式サイトを開いた。学部ごとに学費が表示されている。

「留年にしても、進学にしても、お金がかかる。学費に受験料に、交通費も……だから今後は、お金が絡むことは事前に相談してほしい」

夏美はさくらの目を見た。さくらは少し唇を結び、うなずいた。

「うん。わかった。言うのが遅くなってごめん」

夏美は息を吐いた。胸の奥に残っていた棘が、抜けた気がした。

「お父さんには、もう知らせたの?」

「ううん、まだ」

「じゃあ、ご飯食べたら連絡してあげて。自分で話す方がいいでしょ」

夏美はそう言って箸を手に取った。さくらも自分の席について椀を持ち上げる。

「仕事中じゃないかな」

「今日は水曜だから早帰りだと思うよ」

「そっか。じゃあ、電話する」

さくらは頷き、続けて言った。

「お父さん、連休は帰ってこれるといいね」

「そうね」

箸が器に触れる小さな音が、夜の静けさに溶けていった。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。