「移動すれば、成功できる」。そんな言葉を耳にする機会が増えました。
海外移住や旅行、ワーキングホリデー、地方移住、ノマドワーク、海外留学、移民など。コロナ禍以降、人の移動はこれまでになく注目を集めています。
たしかに、移動は新たなチャンスや出会いをもたらすものです。その一方で、誰もが自由に移動できるわけではなく、そこには見えない格差や分断が潜んでいるかもしれません。
社会学者の伊藤将人氏に「移動」がもたらす光と影を見つめ直してもらいます。(全4回の4回目)
●第3回:移動の時間、景色を楽しむ or タイパ重視で車内でも仕事や読書―年収が高い人が選ぶのはどちらか?
※本稿は、伊藤将人著『移動と階級』(講談社現代新書)の一部を抜粋・再編集したものです。
移動にも影を落とす「能力主義」
ここまでみてきたように、「成功したいなら移動せよ」という主張は、多くの場合、自身が移動とネットワーキングによって成功し、移動時間でさえも無駄にしなかったという自信と自負によって支えられている。
そうした自信と自負は、実力もしくは能力によって達成されたと認識される傾向にある。表現を変えよう。移動をめぐる格差や不平等が存在する社会において、高い移動性を有し、それを実現する人々の多くは、自身の移動資本やネットワーク資本、それらがもたらした成功を、“道徳的に正当なもの”だと思っているのである。
なぜこうした発想に至るのか。それは、グローバル化と新自由主義に覆われた21世紀の社会が、イノベーションやアントレプレナーシップ、成長の追求、そして移動を重要な価値としているからである。しかし、実はほかにも「成功したいなら移動せよ、なぜなら私はたくさん移動したから成功したのだ」という確信と論理を支える一種のイデオロギーが存在する。それが、能力主義(メリトクラシー)である。
能力主義は、イギリスの社会学者マイケル・ヤングが著書『メリトクラシー』で世に送り出した概念である。個人の能力に基づいて社会的地位や権力が分配されるべきという理念と、それに基づく社会を意味する。
それでは、能力主義という観点から人々の移動を考えてみよう。
階級や階層を超えて、すべての人が能力・実力だけに基づいて移動する/できる平等な機会を手に入れたら、どんな世界になるだろうか。素直に考えれば、それは理想的な世界に思われる。社会階層が低い労働者階級の人々が、社会階層が高い特権階級の人々と肩を並べ、公正に競いあったうえで高い移動資本を獲得し、オンライン・オフラインを問わず好きなときに好きなところに移動できるようになり、移動資本を蓄積していくのだから。
しかし、残念ながら、能力主義はこのような理想的な移動をめぐる状況を実現できない。能力主義がはびこる眼の前の社会を見れば、わかることである。なぜなら、勝者の中にはおごりを、敗者の間には屈辱を育まずにはおかないからである(Sandel:2020)。
勝者は自分たちの移動や人脈、成功を「自分自身の能力や努力、優れた実績の結果に過ぎない」と考え、自分よりも移動しない人々を見下すだろう。現に、「できないとか言ってないで、いますぐ移動すればいいのに」「海外に移動してチャレンジする勇気がないから成功しないんだ」といった言葉が、移動強者とでも呼べる人々から聞こえてくる。そして、成功していると感じない移動性が低い人々は、こうなった責任は自分にあると思ってしまう。
ヤングにとって能力主義は目指すべき理想ではなく、社会的軋轢を招く原因だったが、今日、移動をめぐる格差や不平等についてもそうした分断や軋轢を招く状況が広がっているのである。