あんぱんが食べたい

「久しぶり。痩せたな。ちゃんと食べないと駄目だろ」

「そういうお前は太ったな」

「そうかな。定年して動かなくなったからな」

「お前も定年か。そんな年になったのか」

返す言葉はすぐになくなり、孝道は黙った。

父とこうしてまともに会話をするのはいつぶりだろうか。思い出そうとしても思い出すことはできなかった。

「なんか食べたいものとかないの? 食べたいものなら、多少は食べられるだろ」

沈黙に耐えられず、孝道はすぐに口を開く。

まるで自分の気持ちや意志とは無関係に、口だけが動いて言葉を吐き出しているような感覚に陥る。今喋っているのが自分なのか、父なのかもよく分からない。

「そうだな……あんぱん」

「あんぱん?」

「ああ。あんぱんが久しぶりに食べたいな」

「そんなもんでいいのか」

「ああ、そんなもんでいい」

力なく、ため息をつくみたいに言う父が、記憶の父とは似ても似つかなくて、孝道は逃げるように部屋を後にして、ちょっと出てくると妹に告げて車に乗り込んだ。

車に乗って15分程度のところにあるスーパーで買ったあんぱんは、特別こだわりのあるものではないだろうが、シンプルなこしあん入りのパンで今の父でも食べやすいだろうと思ったチョイスだった。

だが、そのあんぱんは今、床の上に転がっている。父が放り投げて落としたのだ。

「何するんだよ」

孝道はあんぱんを拾い上げ、包装をやぶいて中身を父の手に渡す。しかし父はそれをはじくように腕を振り、あんぱんは再び床に転がった。衝撃で中身のあんこが畳の上にはみ出した。

元気だったときの父なら、食べ物を粗末にするなど考えられなかった。みかんでお手玉をした妹を近所に轟くような怒鳴り声で叱りつけた父だ。信念のように後生大事にしていたものさえも、老いが取り払ってしまったのかと思うとやるせない気分になった。

「……違う。これは違う」

父が聞き分けのない子どものような駄々を言い放つ。その様子を見た孝道は思わずカッとなっていた。

「なんだよ、それ。あんたが食いたいって言ったから、わざわざ買ってきたんだぞ? 文句を言うくらいなら、最初から頼むなよ!」

怒鳴り声が和室の空気を震わせる。料理をしていた妹が慌てて部屋に入ってくる。

「お兄ちゃん、落ち着いて」

あんぱんを拾った妹は孝道の腕を掴んで部屋の外へと連れ出す。

「最近は、時々こういうこともあるの……」

「……こういうことって、人が買ってきた食い物をぶん投げることか?」

「そうだね……食べ物に限った話じゃないけど、お父さんの中でなにかが違うんだと思う」

「違うって言われても……俺は親父があんぱんが食いたいって言うから買ってきたんだぞ? なにが気に入らないって言うんだ?」

「さあ……それは私にもわからないけど、きっとお父さんにとっての正解があって、でもお父さん本人もそれを上手く言葉にできないから、こうやって行動で表すしかないんだと思う……せっかく買ってきてくれたのにごめんね」

「お前が謝ることじゃないだろ」

孝道は言って、半開きの襖からベッドの上の父をにらむ。父の横顔はなんだか寂しそうに見えたが、孝道は釈然としないまま、ひと晩泊まって東京へと戻った。もう父と話そうとは思えなかった。

●父の衰えぶりに戸惑う孝道だが、その真意を探るなかで、記憶の奥底に眠っていた、父とあんぱんをめぐる思い出がよみがえり……。後編:【「どうだ、おいしいだろう」脳溢血で倒れた父が食べたがった“あんぱんの正体”と息子が忘れていた、父との思い出】にて詳細をお届けする。