父との時間
夕食をほとんど食べずに部屋へ逃げてきてしまったせいで、春樹は眠れなかった。
軽食を食べようにも車を走らせないことにはコンビニにさえ行けない。春樹は天井を眺めるのにもいい加減飽きて、部屋を出る。フローリングの床はひどく冷たい。なるべく足音を立てないよう一階へ降りる。居間の明かりがついていた。
春樹は廊下の影から居間をのぞく。最悪なことに父がまだ起きていて、独りで晩酌をしているようだった。つまみ食いは諦めるしかなさそうだった。春樹は部屋へ戻ろうと身体の向きを変える。その瞬間だった。
「春樹か」
冷たい空気にしみ込んだ低い声に、心臓をつかまれたかと思った。
春樹は観念して振り返る。こちらを見る父の顔はほんのりと赤らんでいて、もともとのいかめしい顔つきと相まっててんぐのお面のようだった。
「なんだよ、なんか文句でもあんのか」
「少し付き合え」
意外だった。あまりに意外すぎて、その場で少し固まった。すぐにわれに返ったつもりだったが、素直に台所へ向かって缶ビールを用意してしまうあたり、まだ動揺が抜けていなかった。
「病気なんだろ。酒飲んで平気なのかよ」
動揺と緊張を紛らわすように言って、プルタブを引く。正方形の食卓の、父の左隣に腰を下ろし、父が手に持っていたグラスと勝手に乾杯をする。
「治療しないからな。関係ない」
春樹は父の姿をまじまじと眺める。つい数時間前、無責任に変わっていないと思った父は随分と痩せて弱っているのが見て取れた。
沈黙を濁すように、春樹はビールに口をつける。雪が降る外は時間が止まったように静かで、ぼんやりと明かりのともる居間には2つの浅い呼吸が足並みそろわずに繰り返されている。
「仕事はどうだ?」
尋ねる父に、別にと言いかけて春樹は言葉を飲み込む。
「ちょうどセールが終わってひと段落したとこ」
「そうか。ちゃんと飯は食ってるのか」
「まあ、ちゃんとかは分かんねえけど、食ってるよ」
「そうか」
畳に吸い込まれるように会話が途切れる。春樹はビールを胃の中へ流し込み、父もまたビールをグラスに注いでいた。やけに苦く感じるのは、ビールの味のせいだけではないのだろう。
「……おやじ、死ぬのか」
「そりゃあな。あと半年だそうだ」
「そうか」
ため息を吐くように春樹は言って、静かに父が死ぬという事実をかみしめる。長い時間会っていなかったせいで、今更いなくなると言われても実感が湧かなかった。取り返しがつかないほどに、長すぎる空白だった。
「悪かったな」
「何が?」
春樹は思わず父の顔を見て聞き返したが、父は黙っていた。言葉はなかったが、何を言わんとしているのか理解できるような気がした。
「お前の家はここだ。どこへ住んでいても、変わらない。だからいつでも帰ってこい。もう半年もすれば、少しは帰ってきやすくなるだろう」
「ああ、そうかもな。……ありがとう」
父は勢いよくグラスを飲み干し、ぎこちない動きで立ち上がる。春樹は父の身体を支えようと腰を浮かしたが、父は手のひらでそれを遮った。
「俺は寝る。おやすみ」
「誘っておいて最後まで付き合わねえのかよ。勝手だな」
父は痩せた身体をさも重たそうに動かしながら居間から出て行く。春樹はいくらか小さくなった背中に向けて、おやすみとかすれた声を掛ける。
「ああ、おやすみ。それと、なんだ、その……おかえり」
父は振り返らずに寝室へと去っていった。春樹の缶を握る右手に、自然と力が込められた。
顔が、熱かった。視界がにじんだ。取り返しはつかないと分かっているのに、埋まらない空白があると知っているのに、身体の奥底から熱がこみ上げた。みっともないと思った。食いしばった歯はかみ合わず、閉じた唇はゆがんで開き、隙間から不規則に声とも息ともつかない音が漏れた。
父の葬儀
それから間もなく父は亡くなった。
春樹は再び地元を訪れた。葬儀にはたくさんの人が訪れた。最後まで涙は出なかった。父に焼香をあげる参列客の顔ぶれを眺めながら、春樹はおやじのくせに生意気だと心中で独り言(ご)ちた。
火葬を待つあいだ、春樹は息が詰まる親戚の集まりからフェードアウトして、外の喫煙所でたばこに火をつける。
ふいに空を見上げると、火葬場の煙突から白い煙がゆらゆらと上っていくのが目に入った。春樹はたばこを持つ手を掲げた。
「おやすみ、おやじ」
2本の煙は遠く離れながらも重なり合い、雲の切れ間から差し込む黄金色の春の日差しを受けていた。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。