柴田海斗が帰宅したのは夜の8時過ぎだった。ドアの鍵を開けて一歩家に入って大きく一息ついた。住宅設備メーカーの営業として働く海斗は年度末に向けたこの時期、仕事に追われていた。のっそりと廊下を歩いていると、リビングから息子の悠真が出てきた。

「お帰り」

「ああ、もう飯は食ったのか?」

「うん。それじゃ俺、部屋戻るから」

悠真はそう言うとさっさと自分の部屋に行ってしまった。中学3年生の悠真は今年、高校受験を控えているので食後はみっちりと勉強をしていた。真面目に受験に向き合っている悠真に誇らしい気持ちを感じながらも、親子の時間が少ないことに寂しさも覚えていた。

遙香の異変に気づいた夜

海斗がリビングに入るとキッチンから遙香が声をかけてきた。

「おかえりなさい」

「ただいま」

遙香はこちらに背中を向けたまま、料理を温め直していた。

「早く着替えて来て。料理は準備しておくから」

「わかった」

遙香の言葉に従って海斗はリビングを一度出て寝室に戻った。部屋着に着替えた海斗は遙香の作ってくれた野菜炒めを食べながらビールを飲む。食事をしている間、斜め向かいに座る遙香は携帯に視線を落とし、口を結んでいた。

「今日さ、取引先の現場で急に仕様変更が出たんだ」

「ふうん」

「それで担当してた博樹がかなり焦ってて」

博樹は海斗と同期入社で遙香も顔を知っていた。

「大変だったね」

しかし遙香は素っ気ない返事で終わらせた。

返事はあるがまったく広がらない。ここしばらくこんな調子が続いているような気がした。結婚して17年になるが、今まではもっと楽しく会話できていたような記憶があった。海斗はここ最近、遙香の様子がおかしいなと感じていた。

「なあ、疲れてるのか?」

それとなく海斗は探りを入れてみた。すると遙香は携帯から目を離して首を軽く揉んだ。

「まあ、正直そうね」

「仕事、忙しいのか?」

遙香は地元に数店舗あるスーパーの本部で経理事務として働いていた。

「忙しいっていうか、あんまり会社が良くないのよ」

「どういうこと?」

「今年ね、ボーナスが出ないって言われたの」

「え?」

海斗は驚き、声が漏れた。

「業績不振でパートさんも減らすみたいで。正社員は全員ボーナスなしだってさ」

遙香はテーブルに視線を落としながら淡々と話をしていた。

「まあ、そんなこともあるよ。ボーナスだったら俺はけっこうもらえたし、そんなに気にすることじゃないよ」

海斗の言葉に遙香は黙ってうなずき、また携帯を触りだした。

海斗は遙香の様子がおかしいのは仕事のせいだったのだと理解した。となればそのうちにまた以前のように楽しく話せるような関係性に戻るだろうと考えた。