宗教にとどまらない数多くの分野で貢献した比類なき天才
宗教以外にも幅広く活躍した空海だが、社会事業の分野でも信じ難き偉業がある。香川県の満濃池は、周囲が約20キロメートルもある人造池だが、818年の大雨によって決壊した。このため関係者が修築に当たったが、工事は進捗しない。困り抜いた国司は821年に、同国出身で民衆の信望が厚い空海に修築を依頼する。果たして、集まった人々は空海のためにと粉骨砕身し、わずか2カ月余りで見事に修復する。
また、京都で「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」という日本初の私立学校を創設した。当時の教育機関としては、都に大学があり地方には国学が存在したが、入学できるのは支配階級の子弟のみであった。一方、空海が創設した学校は庶民でも入学が可能な画期的なものであった。しかし、残念なことに、空海が他界した後は経営に行き詰まり売却される事態となる。
「弘法筆を選ばず」の言葉が残るように、嵯峨天皇、橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに、平安時代初期の三筆とされた能書家でもあった。唐の顔真卿(がんしんけい)等の影響を受けたとされるが、現存する空海の作品は「風信帖」や「七祖画像賛」などにとどまる。
また、優れた詩文を多く残している。「秘密曼荼羅十住心論(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)」など、数多くの著作を残しただけでなく、日本最古の漢字辞書として「篆隷万象名義(てんれいばんしょうめいぎ)」も作成した。
1949年に日本人初のノーベル賞を受賞した湯川秀樹は、空海が長い日本史の中でも比較する人がいないほどに万能的な天才だと称賛する。世界的に見ても、アリストテレスやレオナルド・ダビンチより幅広い分野で才能を発揮したと絶賛する。