今日、9月2日は「おおきにの日」だ。
大阪市のコーヒーストア経営の企業が、9月2日を「お(0)お(0)き(9)に(2)」と読む語呂合わせし、関西弁で「ありがとう」の意味を持つ「おおきに」の感謝の言葉で、お互いが笑顔でいられるようにと発案したことに由来する。
人間関係を円滑にし、増進もさせる感謝の言葉
筆者が入社した生命保険会社は、近代生保として初めて創業された会社であったため、その創業精神を新人層に植え付けるべく、いわゆる総合職の入社5年目には、4か月間に及ぶ“営業見習い“と称して、実際に保険募集に携わる期間があった。
入社試験時に当制度の存在をうかつにも確認していなかったため、プレッシャーは否めなかったが、覚悟を新たに知人・友人をはじめ紹介先などを訪問して、保険の募集を始めた。
たまたま郷里の出身者で馬喰町(東京都中央区)の繊維問屋として成功した40歳代の経営者がいた。何度か訪問し、その当時としては破格ともいえる、1億円の契約をいただいた。契約印を押印していただいたとき、こちらがお礼を言う前に、この方は「大川君、ありがとう」と、意外なお礼の言葉を発せられた。保険の意義を再認識させてくれたこの言葉が、その後の会社生活の心の支柱となったことは否めない。
あるいはその後、たまたま苦境にあった有力企業の緊急融資の要請に応え、他の金融機関もこれに同調してくれたことで感謝されたことがある(当然自分だけの力ではないが…)。その後に起きた関西大震災のときに、当社の神戸支社が壊滅し困窮したが、その企業が率先して支店の一部を貸与してくれたことは忘れがたい。
感謝したり感謝されることは、お互いの信頼関係をさらに深めるなど恩恵の大きいことは誰もが実感したことがあるだろう。感謝することの意義を説く歴史上の人物は多い。
「私は、自分の障害を神に感謝しています。私が自分を見出し、生涯の仕事、そして神を見つけることができたのも、この障害を通してだったからです」。アメリカの社会福祉活動家であり教育家でもあった、ヘレン・ケラーが残した感謝の言葉だ。彼女は1歳半から視覚も聴覚も失い、話すことができなくなった。絶望するような状況にも関わらず、その障害にすら感謝しながら87年の生涯を生き抜いた。
「アンネの日記」を著わしたユダヤ人の少女、アンネ・フランクは、ナチス政権下の強制収容所内で15歳の短い生涯を終える。収容所の耐え難い環境の中にあっても、青い空や太陽の光はいつも平等に人間の心を癒やしてくれる、それだけで感謝すべきだとして、次のような言葉を残している。
「この日光、この雲のない青空があり、生きてこれを眺めることのできる限り、私は不幸ではない」と。
一方、海外へ行くとき、現地語の「ありがとう」だけは記憶していく人がいる。「こんにちは」などの言葉は、上手に発音しないと通じないことも多いが、「ありがとう」だけは通じるようだ。感謝の言葉「ありがとう」は苦虫をつぶしたような顔では言えない。カタカナ語方式でタドタドしく発音しても理解してくれることが多い。
「ありがとう」の精神を持つことは、いつでもどこでも人間関係を円滑にする秘訣のようだ。