夢とは違った厳しい現実

それから1カ月後、晴彦は予定通り会社を退職したあと、ネットショップを開設し、コーヒー豆の販売を始めた。退職するまでの間もコーヒー豆の焙煎を試行錯誤したり、食品衛生責任者の資格を取得したりと、準備を続けていた。

だが、現実はそう甘くなかった。

注文がまったく入らず、焙煎豆を作れば作るほど赤字という状態が続く。晴彦も焙煎の研究やSNSでの宣伝などに取り組んでいたが、なかなか成果にはつながらなかった。

そのため生活費のほとんどは美佳の収入でまかない、足りない分は貯金を切り崩していた。退職金の残りがあるとはいえ、何が起こるか分からないので簡単に手を付けてしまうのは怖い。

1年間は応援すると約束したものの、いざ自分の収入と貯金だけで家族の生活を支えることになると、不安は募るばかりだった。

 

   ◇

 

ネットショップを開設してから3カ月が経ったある日の夜、美佳が仕事から帰宅すると、晴彦はダイニングテーブルで嬉しそうにスマホを見つめていた。

「……どうしたの? 豆が売れたの?」

「いや、この前買ってくれたお客さんが感想をメールで送ってきてくれてさ」

そう言うと、晴彦はスマホの画面を見せてきた。メールには、香りが良くて美味しかったことや、また購入したいということが書かれてあった。

「まだ注文は少ないけど、こういう言葉をもらえると本当に嬉しくてさ」

晴彦が仕事のことでこんなに嬉しそうにしてるのを初めて見た気がした。

かつて晴彦は、営業として頑張って成果を上げたことを話してくれたこともあったが、淡々と報告してくれるだけで、感情をあらわにすることはなかった。大変なばかりで、仕事を楽しいとは感じられていなかったのかもしれない。だから成果を上げても、素直に喜べなかったのだろう。

それでも晴彦は泣き言も不満も言わずに家族のために身を粉にして働いてくれていた。だから休日は家で休むことしかできなかった。趣味が見つからなかったのではなく、見つけられる余裕がなかっただけかもしれない。そんな晴彦がようやく周りが見えなくなるくらいに熱中できるものができて、今は一応それを仕事にできているのだ。

美佳は大きく息を吐き出した。

もちろん生活への不安が消えたわけではない。それでも今までずっと家族を支えてきてくれた晴彦のことを思うと、せめて約束した1年間は、心から応援してあげたいと思った。

「……良かったね。喜んでもらいたいって言ってたもんね」

「うん。まだ売上は全然少ないけど、こういう言葉をもらえるともっと頑張ろうって思えるんだ」

「そう。頑張ってね。応援してる」

美佳の正直な気持ちだった。晴彦は嬉しそうに目を細めて立ち上がった。

「仕事疲れただろ。ご飯の準備はもうできてるから。着替えたら由美子を呼んで食べようよ」

「うん、でもその前にコーヒーもらっていい? 久しぶりに飲んでみたくて」

美佳がそう言うと、晴彦はうなずいて足早にキッチンに向かっていった。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。