恵美香が踏み出す一歩

「恵美香、ちょっといいか?」

と健介から声をかけられたのは数日後、夕食を終えて恵美香がソファでくつろいでいるときだった。

「この前、貯金箱から抜いた分。少し多めに入れてるから」

健介が差し出してきた封筒を、恵美香はすぐに受け取ることはしなかった。

「……返せばいいってもんじゃないわ」

「分かってる。いや全部分かってるって言ったら嘘になるけど、勝手に使ったのは悪かったって思ってる」

健介はそう言って視線を落とした。

「生活費から残した金だから家の金なんじゃないかって気持ちはあった。でも、恵美香が節約して捻出したお金だもんな。俺、その辺のこと、よく考えてなかった」

健介なりに正直に気持ちを伝えてくれた。もちろんわだかまりが消えることはなかったが恵美香は封筒を受け取った。

「私もう500円玉貯金をするつもりはないから」

「……そうなのか?」

「あなたに黙ってやってたのも確かに良くなかったし。もうやる気もなくなっちゃったしね」

恵美香がそう言うと健介は眉尻を下げた。

「ごめんな」

「でも今回のことでいろいろと考えたの。それでね、私、仕事を探そうと思ってる」

恵美香の言葉に健介は少し驚いた顔をした。

「やっぱり私は自分でお金を稼いで家計を支えて、自分の好きなこともやりたいと思ったんだ。でも別にあのとき仕事を辞めたことは後悔してない。あれは必要なことだと思ってる。でも今はもう陽奈も大きくなったし、昼間は時間もあるから仕事をしても大丈夫だと思うの」

「……仕事って医療事務?」

「それは分からないわ。健介的にはどう? 反対?」

恵美香の詰め寄るような調子に、健介は一瞬言葉を飲み込んだ。500円玉貯金の負い目があるから、あからさまに反対はできないはずだ。だから恵美香はこのタイミングで切り出したのだった。

「……反対っていうか、少し不安な気持ちはあるよ。陽奈のこともあるし、家のことだって今までどおりにはいかないだろうし。でも、いいんじゃないかな。俺も今まで任せっきりだった家事とか、ちゃんと協力するよ」

「ありがとう。陽奈にも私からちゃんと話しておくね」

これからまた違った生活になる。でもそのことが恵美香はとても嬉しかったし、わくわくした。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。