まだ薄暗い朝方の居間では、夏山シーズンの始まりを伝えるテレビニュースが流れている。登山口に並ぶ人たちを横目に見ながら、麻友は床に広げたバックパックへ荷物を詰めていた。雨具、虫よけスプレー、救急セット。山小屋で使う小銭用の財布と、念のため紙の地図とコンパスも入れる。

「麻友、おにぎり置いておくわよ」

台所から声がして、母・達子が右足を庇うように歩きながら居間へ入ってきた。机の上に保冷バッグを置き、緩慢な動きで腰を下ろすと、ズボンの裾から白い湿布に覆われた足首が覗いた。麻友は達子が座るのを見届けてから、ファスナーを開けて中身を取り出した。

「ありがとう。こっちが梅?」

「そう、梅と昆布と鮭ね。お父さんの分は、向こうに置いてきてあげて」

「分かった」

今年は1人きりの追悼登山

麻友はおにぎりを受け取り、バックパックにそっとしまった。テレビ画面では、山開きの式典で関係者が安全祈願をしている。

毎年この知らせを聞くころになると、父・茂人の命日がやってくる。茂人は、麻友が大学生だったころ、登山中の事故で亡くなった。それ以来、命日の前後に件の山へ登り、手を合わせて帰ってくるのが麻友たち母娘の恒例になっていた。

ところが、達子が数日前に捻挫したせいで、今年は一緒に登れなくなってしまった。

「水筒は?」

達子はテレビに目をやり、それから麻友のバックパックを覗き込んだ。

「入れた。こっちに1本、予備がもう1本」

「雨具は?」

「一番上。すぐ出せるようにしてる」

「タオルは多めにね。汗もかくし」

「分かってる。3枚入れた」

「なら大丈夫ね」

達子は安心したようにうなずいたが、すぐに自分の足元を見てため息をついた。

「情けないわね。あんな段差で足をひねるなんて」

「出先で怪我するよりいいよ」

「それはそうだけど。お父さんに笑われそう」

「笑わないよ。たぶん心配すると思う」

麻友がそう言うと、達子は少しだけ表情を和らげた。

やがて支度を終えた麻友は、玄関で登山靴を履いた。靴ひもを結び、立ち上がると、達子は壁に手をつきながら見送りに出てきた。

「気をつけてね。天気が崩れそうなら、無理しないで」

「分かってる。早めに戻るよ」

「途中で一度、連絡できたらして」

「電波があったらね」

「それでいいわ。お父さんにも、私の分までよろしく」

麻友はバックパックを背負い直し、うなずいた。

「任せて。ちゃんと手を合わせてくるから」

扉を開けると、朝の空気はまだ少しひんやりと涼しかった。振り返って達子に軽く手を振ると、麻友は登山口へ向かうバス停へと歩き出した。