慣れた山で生まれた油断
山の中腹を過ぎたあたりから、木々の間を抜ける風が湿気を含み始めた。
麻友は足を止め、空を見上げる。先ほどまで白く明るかった雲が、いつの間にか灰色がかっていた。
「上の方、少し降り始めてましたよ」
前から若い夫婦が下りてきて、夫の方が声をかけてくれた。2人は脱いだ雨具の上着をそれぞれの腕にかけている。
「そうですか。ありがとうございます」
麻友は軽く会釈し、バックパックを背負い直した。小屋まではそう遠くないはずだ。雨をしのげる場所で様子を見てからでも引き返す判断は遅くない。そう考えて、わずかに歩調を早める。
「あ、降ってきた」
最初は、糸のように細い霧雨だった。麻友はバックパックから雨具を取り出して羽織った。登山道は整えられていて、足元も見やすい。焦る必要はない。そう思いながらも、雨音が少しずつ大きくなっていくのが分かった。
「もう少し先だったよね」
自分に言い聞かせるように呟いた。
雨をしのげる小屋は、たしかこの先の尾根を回り込んだところにある。何年前だったか、母と一緒に来た時にも、雨に降られてそこで休んだ。
だが、道は思ったより長く感じた。雨で視界が白くにじみ、木の根の段差が見えにくくなる。麻友は、足元を確かめながら進んだ。その時、正規ルートの脇に、斜面を斜めに登る細い踏み跡が見えた。草が倒れ、土がうっすら見えている。整備されたものではないが、人が通ったような跡ではあった。この先でまた登山道に合流するのかもしれない。
「ショートカットできそう」
麻友は立ち止まり、正規ルートの方を見た。道は大きく回り込むように続いている。一方、踏み跡の方は最短で上の道へ抜けているように見えた。雨脚はさらに強くなり、木の葉から落ちる水滴が肩に跳ねる。
「これくらいなら大丈夫……」
声に出すと、かえって冷静な判断のように思えた。
道を完全に外れるわけではない。上に抜けたら、すぐ正規ルートに戻ればいい。何度も来ている山だし、方角も分かっている。
バックパックを背負い直した麻友は、正規ルートを離れて斜面へ進んでいった。だが、雨は思ったより早く土を柔らかくしていた。1歩踏み出すたびに靴底が沈み、予想以上にぬるりと滑る。木の枝をつかもうとして手を伸ばしたが、指先に触れた枝は細く、頼りなかった。
「もう少し……」
そう呟いた瞬間、右足が横に流れた。
「あっ」
体が傾く。
踏み直そうとした左足も、泥に取られた。麻友は反射的に手をついたが、濡れた地面は支えにならなかった。
「いやっ……!」
膝を打ち、肩を木の根にぶつけ、そのまま斜面を滑り落ちる。短い悲鳴が雨音に消えた。
●亡き父を偲ぶため、命日に登山をしていた母娘。母がケガをしたことから、今年は娘・麻友だけで山へ向かった。恒例行事という油断もあり、道中で誤った判断をしてしまった麻友は、父を失った山で自らも窮地に陥ってしまった…… 後編【父を亡くした山で娘までも…命日恒例登山で娘が繰り返した“あの日の過ち”】にて、詳細をお伝えします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
