<前編のあらすじ>
父の法事を終えた春江は、1人で実家に立ち寄り、母・美知子が雨漏りのする古い家で暮らしている現実を目の当たりにする。居間には洗面器が置かれ、天井や廊下には傷みが広がっていたが、美知子は「何とかなる」と取り合わない。
春江は母の1人暮らしを危ぶみ、老人ホームの見学だけでもしてほしいと勧める。しかし美知子は、ここは亡き夫と暮らした家だから「離れたくない」と拒否。春江は、夫婦の思い出に縛られる母の気持ちに強いもどかしさを覚える。
やがて春江は、父が生前、母に怒鳴り散らしたり、家事を押しつけたりした過去を持ち出し、「守りたい思い出なんてある? きれいな思い出にしなくていい」と踏み込む。その言葉は美知子の胸に重く残ったのだった。
●前編【「まだこの家にいるの?」亡き父の影に縛られた母…娘がついに浴びせた「禁断の一言」】
美化していた記憶のほころび
春江が帰ったあと、家の中は急に暗くなった。美知子は居間の電気をつけ、しばらく畳の上に座っていた。洗面器に落ちる雫の音だけが、夜の静けさの中で規則正しく響いている。
『あれを、きれいな思い出にしなくていいんだよ』
春江の声が、まだ耳の奥に残っていた。
「分かったようなことを言って……」
誰に聞かせるでもなく、美知子は小さくつぶやいた。
夫婦には、夫婦にしか分からない年月がある。春江が覚えているのは、その一部だけだ。楽しいことばかりではなかったが、幸福な日々も、確かにあったはずだった。
「そのはず……よね」
ところが、天井の雨染みを見上げると、妙に落ち着かない気分になった。長い間、押し込めてきたものが少しずつ表に染み出てきたように見える。
美知子は立ち上がり、逃げるように台所へ向かった。流しには、春江が使った湯呑みが伏せてある。そこに立つと、若いころの自分の姿がふと重なった。
結婚が決まったとき、美知子は勤めていた会社を辞めた。周囲は寿退社だと喜び、夫もそれが当然だと言った。
「……本当は働きたかったのにね」
口から洩れた言葉に、美知子は自分でも驚いた。
そういえば当時は、仕事にも慣れ、昇給の話も出始めたころだった。名残惜しい気持ちはありながらも、妻になるのだからと、自分に言い聞かせたことを思い出す。
望まれて専業主婦になった美知子だったが、暮らしに余裕があったわけではない。春江が小学校に上がるころには、近所の店でパートを始めた。朝から夕方まで働き、買い物袋を両手に下げて帰り、そのまま台所に立つ毎日。夫は居間で新聞を広げ、悠然と夕飯が並ぶのを待っていた。
「腹減った。飯はまだか」
「ごめんなさい。すぐ作るから」
何度、そう答えただろう。
ふらりと仏間へ戻ると、夫の写真が目に入った。若いころより穏やかな表情に見えるのは、写真だからだろうか。顔を眺めているうちに、浮気に気づいた日のこともよみがえる。
我慢できず問い詰めたあのとき、夫は悪びれもせず面倒くさそうに眉を寄せた。
「余計な詮索をするな」
その一言で、美知子は口を閉じた。春江のためにも、家庭を壊すわけにはいかない。自分が黙っていれば、何もなかったことにできる。そう思った。
「私、怒ってもよかったのかしら」
美知子は仏壇の前に座り、膝の上で手を握った。答える声はなく、雨音と、洗面器に落ちる水音だけが響いている。
家族。献身。愛。耳障りの良いきれいな言葉で包み、ずっと見ないふりをしてきた記憶の箱が開き、中身が一気に噴き出した。美知子は長いこと夫の顔を見つめたあと、写真立てをそっと伏せた。
