美知子が手にした安心な暮らし
白い陽光が差し込む朝、美知子は朝食を取るため、老人ホームの食堂へ足を踏み入れた。窓際の席に座ると、あとからやってきた鈴子が当たり前のように隣に腰を下ろす。
「美知子さん、今日は卵焼きよ。ここの、少し甘いのよね」
「そうね。家で作っていたのより、ずいぶん上品な味だわ」
そんなやり取りが、朝の支度の一部になっていた。
食事を終えると、鈴子と一緒に談話室へ向かう。大きな窓からは、雨上がりの庭が見えた。植え込みの葉はところどころ黄色くなり、濡れた石畳には薄い光が差していた。庭の隅では、萩の花が風に揺れている。
「雨が上がると、空気が澄むわね」
鈴子が目を細めた。
「ええ。庭が明るく見えるわ」
美知子は窓の外を見ながら、かつての家を思い出した。
天井の染み、洗面器に落ちる水音、夜中に雨脚が強まるたびに目を覚ましたこと。ここでは、雨が降っても屋根を心配しなくていい。夜になっても廊下の明かりが残り、誰かの気配が近くにある。それだけで、眠りにつく前の心細さはずいぶん薄れた。
午後、春江が面会に来た。美知子の部屋の窓辺に椅子を寄せ、2人で庭を眺める。
「お母さん、顔色よくなったね」
春江がそう言うので、美知子は少し照れた。
「そう? まだ慣れないことも多いけどね」
「でも、前より明るく見える」
その言葉に、美知子は胸の奥が温かくなるのを感じた。
「思い切って家を手放してよかったわ」
「後悔してない?」
「もちろん。やっと自分の好きにしようと思えるようになったの」
美知子は窓の外へ目を向けた。夫の記憶に縛られていたころより、今の暮らしの方がずっといい。
「それならよかった」
春江がぽつりと呟いたきり、会話は途切れた。並んで座る2人の前で、色づき始めた木々が午後の光を受けてきらめいていた。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
