美知子が選び直す“これから”
数日後、春江が再び家を訪れた。
続く長雨はいくらか小降りになっていたが、居間の洗面器はまだ片づけられなかった。天井の染みは、前より濃くなったように見える。
「この前のことだけどね」
湯呑みを2つ並べ、春江の向かいに座る。話さなければと思うのに、なかなか言葉が出てこなかった。春江が顔を上げ、聞いているというようにうなずいた。
「すぐには、受け入れられなかったの。お父さんとのこと、春江にあんなふうに言われるとは思っていなかったから」
「ごめん、きつい言い方だったよね」
視線を落とす春江に、美知子は首を振った。
「腹が立ったのは本当よ。私の人生まで否定されたような気がしたから」
口にすると、胸の奥が少し痛んだ。しかし、痛みを避けてばかりでは、また同じことの繰り返しだ。
「でも、1人になって考えたの。結婚生活を思い返してみると……たしかに私は、お父さんとの日々を、少しきれいにしすぎてたかもしれない」
春江は黙って聞いていた。急かさず、ただ待ってくれている。
「いいこともあったわ。全部が悪かったわけじゃない。でも、つらかったことまで、夫婦だから仕方ないって片づけてきたのね」
ちらりと仏壇の方へ目を向ける。以前なら、こんな話をするだけでも、申し訳ない気持ちになっただろう。
「この家を守っているつもりだったけれど、本当は、お父さんに義理立てしていたのかもしれないわ」
「お母さん」
春江の声が揺れた。
「私、お母さんを責めたかったんじゃないの。ただ、安心して暮らしてほしかっただけ。雨漏りの音を聞きながら、1人で我慢してると思うと怖くて……」
「私も、今の生活が怖くないわけじゃないのよ。でも家を離れたら、何も残らないような気がして」
「この家を出たって何もなくならないよ。私も浩司さんもいるし、優斗だってまた帰って来る」
娘婿と孫息子の顔を思い浮かべ、美知子は湯呑みに視線を落とした。
「この土地と家のこと、少しずつ考えてみるわ。売ることも含めて。老人ホームも、見学だけなら行ってみてもいい」
「本当に?」
「すぐに決められることじゃないけどね。手続きだって時間がかかるでしょう」
「そうだね。焦らず一緒に調べよう」
美知子は小さくうなずいた。
もうこの世にいない夫のために古い家にしがみつき、娘に心配をかける必要はない。自分も自分のために道を選んでいいのだ。ふと視線をやると、窓の外では細い雨が庭の紫陽花を濡らしていた。
