懐かしい景色と父の背中
登山口の案内板の前で、麻友はバックパックの肩ひもを直した。木製の看板は新しくなり、道標の文字も以前より見やすくなっている。足元には整備された階段が続き、ぬかるみやすい場所には木道が設置されていた。
(ここも、だいぶ歩きやすくなったなあ)
話し相手のいない麻友は、心の中でそう呟いてからスマホを片手に歩き出した。来られない母のぶんもたくさん景色を写真に撮って、あとで見せてあげようと思った。いつも後ろから「ゆっくりね」と声をかけてくる達子がいないせいか、自然とペースが上がった。前方では、小学生くらいの男の子が父親に続いて階段を上っていた。
「あとどのくらい?」
「はは、まだ始まったばかりだよ」
父子の会話を聞いた瞬間、麻友の胸に昔の記憶がよみがえった。子どものころ、家族で山登りをしていたときの自分も、何度も父に同じことを尋ねた気がする。
「お父さん、まだ?」
「まだまだ。先は長いぞ」
茂人はそう言って笑い、歩調をゆるめた。
いつも先頭を歩き、急な段差では麻友や達子に手を差し出した。麻友が疲れているのを察すると、何も言わずに立ち止まり、景色を見るふりをして休ませてくれた。
麻友は風景の端に階段をのぼる親子を留めたまま、スマホで写真を撮った。
「こんにちは」
「あら、こんにちは」
途中の休憩所に着くと、ベンチでは熟年の夫婦が並んで水を飲んでいた。麻友も端に腰を下ろし、水筒を取り出す。風が木々の間を抜け、汗ばんだ首筋を冷やした。
休憩するとき、茂人は決まって梅干し入りのおにぎりを選んだ。ずっと好物なのだと信じていたが、今となっては麻友が避けていたものを食べていただけなのではないかとも思う。
「お先です」
「はいはい、お気をつけて」
夫婦に軽く会釈してからさらに登ると、徐々に木立の間隔が大きく開き、やがて見晴らしのよい場所に出た。真新しい手すりの向こうに麓の町並みが薄くかすんで見える。昔はここまで来るだけでも、大冒険をしたように感じたものだ。
麻友は手すりにそっと触れ、しばらく景色を眺めた。この山は、父を失った場所だ。しかし、それだけではない。父の大きな背中も、母の笑い声も、弁当の匂いも、ここには残っている。
「今年も来たよ」
そっと呟いてから麻友はまたスマホを取り出した。カメラを起動させ、身体をねじりながら自分の見ている景色を動画で撮影する。
「今、見晴台です」
撮ったばかりの映像を添付して母に短いメッセージを送ると、麻友は再び登山道へ足を向けた。
丸太でできた不揃いな階段が続き、人の声が遠くに聞こえる。この辺りは、昔と変わらないらしい。父との記憶に背中を押されるように、麻友は湿った地面を踏みしめていった。
