身勝手な夫

「……どうして辞めようなんて思ったのよ?」

「さっき言った」

退職者制度があったから辞めたというのか? そんなわけがない。もっと他に理由があるはずなのだ。しかしどうやら健司は話す気がないらしい。もしかしたら社内で居場所を失っていたのかもしれないし、働くということに嫌気が差したのかもしれない。どんな理由があるのかは本人が話す気にならない限り弘美は知る術がない。だがこれ以上しつこく聞いても不機嫌になるだけだった。

「……そう」

弘美は脳内で現状をどうにかしてポジティブなものにしようとする。

健司は現在56歳であと4年で定年を迎えることになる。2倍になった退職金は60歳までの4年分の給料には満たないかもしれない。だが、そこまでに大きな金銭的な問題が発生するとは思えない。

何よりも弘美もパートをしていて、それで補填はできる。あとは贅沢をせずにじっと我慢していれば年金だってもらえるようになるだろう。だったら生活の問題ないはずだ。

いざとなったら自分がパートの時間を増やせばいい。弘美が働くスーパーはいつも人材不足で長時間働くと言えば、喜んで受け入れてもらえるだろう。

弘美は思考を切り替えて、ゆっくりと息を吐く。大丈夫。問題ない。いつもこうやって健司に合わせてきた。だったらこれからも同じようにやっていけるはずだ。

しかし……。

「蕎麦屋をやるぞ」

最後の出勤から帰ってきた健司の開口一番の言葉に、弘美は再び固まった。

「……は?」

「蕎麦屋をやるんだ。知り合いがいいところがあると教えてくれてな。立地もいいし、前の店がそのまま残ってるから、初期費用も少なくやれる」

話を勝手に進める健司を弘美は止める。

「ちょっと待ってよ! 勝手なことを言わないで。そもそもそんなお金がどこにあるのよ?」

「退職金が出るからそれで払うに決まってるだろ」

健司は鼻で笑うように説明をする。その態度がさらに弘美の感情を逆なでる。