ほかの犬がぶつかってきて……
大会当日の朝、初美はいつもより少し早く目を覚ました。
窓の外には、雲ひとつない晴れ渡った空。天気は味方してくれたようだ。
「レオ、起きて。いよいよ今日は本番だよ。絶対に勝とうね」
声をかけると、レオは寝ぼけまなこをぱちぱちと瞬かせ、それから小さく伸びをした。いつもと変わらない様子に、初美は安心する。
会場は郊外の広大なドッグラン。テントが並び、色とりどりのゼッケンをつけた犬たちとその飼い主が続々と集まってくる。出場者用の控えエリアには、顔なじみの飼い主たちもいた。
「坂本さん、今日も頑張ってくださいね」
「レオくん、前回すごかったよね。今回は優勝狙い?」
声をかけられるたびに、緊張と高揚が入り混じった気持ちになる。レオの首にゼッケンをつけて、初美は息を整えた。予選前のウォーミングアップ、軽く体を動かしてコースに慣れさせる時間だ。
「レオ、ゆっくりでいいからね」
初美はリードを外し、いつものように一緒に走り出す。トンネル、ハードル、スラローム。
レオは真剣な顔でこなしていく。
だが、コーナーを曲がろうとしたそのときだった。視界の端から勢いよく飛び出してきた他の犬が、レオの脇腹に突っ込んだ。レオは鳴き声を上げて転がり、初美は慌てて駆け寄った。
「レオ! 大丈夫!?」
レオはすぐに立ち上がったものの、左前足をかばうような仕草を見せる。
初美は心臓が跳ねるような不安を感じながら、そっと触れてみた。少し熱を持っている気がする。何より先ほどまでのあの機敏な動きは、明らかに失われていた。
係員に事情を伝え、応急処置の氷をもらいながら、初美は葛藤していた。
レオの状態を見れば、いつも通りに走ることができないのは一目瞭然だ。だが棄権してしまえばこれまでの努力が無駄になる。なにより賞金だって手に入らない。そんなことはレオだって望んでいないはずだ。
レオは初美の顔をじっと見ている。初美は、レオの目を見つめ返しながら息を吸い込んだ。
「レオ、走れるよね……? 今日だけ我慢しよ……」
「初美」
そのとき、背中から聞き慣れた声が届いた。
振り向くと、大祐が立っていた。知り合いの誰かから、レオの状況を聞いたのだろう。無理に出場させようとしていた初美の表情を一目見るなり、彼は言った。
「……本当に、それでいいの?」
●夫に諭された初美はいつしかレオのためではなく、自分の欲にとらわれてしまっていたことに思いいたるのだった。その後、獣医の元で治療を受けたレオ。レオはまた、初美と共に駆け回ることができるようになるのか。後編:【「ちょっと必死すぎたかな…」怪我をした愛犬を無理矢理“障害物競争”に出場させようとした妻が夫に言われて「気づいたこと」】にて詳細をお届けする。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。