母が死んだ。脳出血だった。

仁美はショックを受けなかったわけではない。けれど救急車を呼び病院に連れ添ったときも、葬儀の準備を進めているときも、葬儀も、終わったあとも、涙は出なかった。元気だった母がある日電池が切れたように倒れ、そのまま目を覚ますことなく逝ってしまったせいで、気持ちが追いつかなかったのかもしれない。あるいはこれからも続く仁美自身の生活に対する不安が、悲しみを優に凌駕するものだったからなのかもしれない。

今年で35歳になる仁美は無職だ。

新卒で就職したのが今時珍しい絵に描いたようなブラック企業だった。毎日のように上司に嫌味を言われ、叱責され、深夜まで残業し、それでも終わらなければ会社の床で仮眠を取って働いた。結果、たった半年で仁美の心身は壊れた。

以来13年、仁美は実家で“療養”という名のモラトリアムを過ごしてきた。早くになくなった父が遺した貯金と、ホテルの清掃員のパートで生計を立てている母に寄りかかりながら、自宅で――否、自室でひっそりと息をしてきた。

しかしこれからはそうも言ってはいられなくなる。頼りにしていた母はもうおらず、これから仁美は自分自身の力だけで生きていかなくてはいけない。頭では分かっている。けれどいくら自立という2文字を思い浮かべても実感は湧かなかったし、その先にある具体的な行動なんて想像できるはずもない。

だから、「あんた、これからどうするつもりなの?」と、割ときつめな口調で姉の暁美から詰め寄られても、仁美は「はぁ」とあいまいに首をかしげてみるくらいしかできなかった。

「はぁ、ってね、あんた……このままじゃ生きていけないでしょ。住む場所はまあこの家があるから、本当は売っちゃいたいんだけど、いいにしたって、働かなきゃ食べていけないでしょ。それに、ずっと独り身でいるつもり? 孤独死する中年の面倒なんて私だってさすがに見れないよ?」