ノリで音大とか言ってるわけじゃない

正解は分からない。だが何が正しいのかを決める前に、知佳の話を聞くべきだと思った。だから、その日、部活から帰ってきて真っ直ぐ部屋へ向かっていった知佳のもとに夕食を運びがてら、千鶴は扉越しに声をかけることにした。

「知佳、ちょっと話せるかな」

「なに?」

「進路のこと」

「うっさいな。もう決めたの。紙も出したし」

「うん。分かってる。でも、お母さんもまだちょっと不安。大学を出たあと、知佳の人生は何十年も続くでしょ? だから大学だけじゃなくて、その先のこと、知佳がどう考えてるのか聞きたくて」

扉の向こうから返事はなかった。だが千鶴が待っていると、扉が薄く開いた。

「入って」

知佳に言われるがまま、千鶴は部屋に入った。

「別に私だってさ、ノリで音大とか言ってるわけじゃないんだよ」

夕食の親子丼を食べながら知佳が話すのを、千鶴はベッドの上に座って聞いていた。

「ピアノとかヴァイオリンとかトランペットとか声楽はさ、小っちゃいころからやってないと難しいんだけどさ、サックスはそうでもないんだよ。演奏者の数も、そこまで多いわけじゃないし、中学から始めたけど第一線で活躍してる人だっているし」

「そうなの」

千鶴は相槌を打ちながら驚いてもいた。当然なのかもしれないが、サックスという楽器について、自分の将来について、整然と話す知佳の姿に、頼もしささえ感じていた。

「そうだよ。それにさ、今はクラシックでオーケストラとか所属したりできたらなって思ってるけど、サックスはジャズもいけるし、最近だったらポップスのアーティストの後ろとかで演奏したりするチャンスもあるし。ママだってテレビで見たことあるでしょ?」

千鶴はうなずく。たしかに見たことはある。それどころか、「知佳だってこうなれるんじゃない?」と音楽番組を見ながら話してすらいた。だが冗談半分だったステージへの道筋を本気で歩み始めようとする娘を目の前にした今、どうするのが正しいのか分からず困惑しているのだ。

「ちな、ただ音大ってだけじゃなくて、志望校も決まってる」

「え、そうなの?」

「うん。志望校っていうか、師事したい人っていうか。この先生。もともと日本トップクラスのサックス奏者だったんだけど、弟子の活躍がすごくて海外で認められてる人もたくさんいるんだよ」

知佳が差し出したのは都内にある音大のパンフレットだった。自分で取り寄せたのだろうか。部活のおかげですっかり筋肉質になった知佳の腕の筋は、夢に立ち向かう本気さを物語っているように見えた。

「分かった。応援する。パパのこと、説得できるように協力する」

千鶴が言うと、知佳は「ほんと」と目を丸くしていた。

●千鶴も説得に乗り出すのだが、それでも父・憲武が知佳の音大進学を反対する気持ちは揺るがなかった。なぜなのか。憲武には夢を追ったことで負った深い心の傷があった……。後編:【「バンドでメジャーデビューなんて考えなければ」夢破れた過去から、音大進学を反対する父を動かした娘の熱意】にて詳細をお届けします。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。