千鶴は卵をフライパンに落としながら、思わずため息を漏らした。

リビングの窓から差し込む朝の陽光を眺めながら、頭の中は昨晩の出来事でいっぱいだった。

いつも通りの食卓だった。

作りすぎてしまって2日目に突入したカレーが並び、高2の娘である知佳が「え、またカレー?」と眉をひそめる。夫の憲武は黙々と平らげ、おかわりをし、「味変すればいい」と大量の福神漬けをカレー皿に盛りつける。テレビからニュースキャスターが原稿を読み上げる声が聞こえ、緩やかに時間が流れる。

「知佳、そういえば担任の先生から電話あったよ? 進路指導の紙出してないんだって?」

「あ、忘れてた。でももう決めてるよ。音大」

知佳がそう口にした瞬間、食卓も、テレビも、家のなかから全ての音が消えた。

「なにやりたいかって考えたら、やっぱ音楽かなって。だから音大受けるよ」

きっとほんの一瞬訪れた沈黙の意味を知佳なりに察したのだろう。念を押すようにくり返した。

知佳は中学から吹奏楽部に入り、親のひいき目を抜いても熱心に活動してきた。早朝から朝練に出かけ、帰りは夜遅く、土日も朝から晩まで吹奏楽漬けの日々を送っている。

だから音大に行きたいと言われて驚きこそしたものの、千鶴には腑に落ちる気持ちもあった。

「音大なんてやめておけ」

だが、案の定、憲武の反応は冷たかった。

「学費も高いし、卒業したからって安定した仕事に就ける保証もないしな。音楽やりたいなら、普通の大学でサークルでもやればいいだろう」

「は? 無理だよ。興味ないし。サークルとか、そういう遊びじゃなくて、もっと本格的にサックスやりたいの。それに、安定で言うなら教員免許でも取ればいいじゃん」

「そんな中途半端な考えで、学生に何を教えるっていうんだ」

「は? まじ何なの」

「とにかく駄目なものは駄目だ。進路の紙は四大を書いて出しなさい」

憲武は有無を言わせずに言って、カレーを食べる手を再び動かし始める。もう話すことはないと、機械じみた動きが告げていた。

「意味分かんな」

舌打ちとともに吐き捨てた知佳は、スプーンをテーブルの上に放り出し、立ち上がる。

「ちょっと知佳⁉ ご飯は?」

「いらない!」

リビングを飛び出して2階の自室へ向かう知佳を追いかけようとした千鶴だったが、憲武が呼び止める。

「放っておけ。現実が見えてないんだよ、あいつは」

憲武の言葉には、傷ついたことがある人間特有の重みがあった。だから千鶴は黙るしかなかった。足元が急に沼地になり、沈んでいくような錯覚を覚えた。