<前編のあらすじ>
大学進学を控えた娘・知佳が主婦の千鶴に告げた希望進学先、それは音大だった。学費は高い。卒業したからといって音楽で安定した職に就けるかもわからない。夫の憲武は娘の進路希望にはっきりと反対する。
それでも、知佳の決意は揺るがない。理路整然と演奏している「サックス」という楽器の位置づけや自身の将来について語る知佳。決して「ノリ」で進路を選んだわけではないようだ。千鶴は憲武を説得しようと試みるのだが、憲武には夢を負い失敗した苦い過去があった。
前編:「私決めたの」4年間で学費約800万、音大進学を希望する娘、反対する父。二人の対決の行方は
俺は認めない
リビングには久しぶりに家族3人揃った姿がある。
だがかつてのような団らんはなく、凄腕の剣士たちの立ち合いのような、鋭く尖った空気で張り詰めている。
「何度話をされても、駄目なものは駄目だ。母さんが納得しても、俺は認めない」
まず口を開いたのは夫の憲武だった。声はいつにもまして鈍重で、有無を言わせない凄みをたたえている。多数決なら2対1で千鶴たちが有利なはずなのに、まったくと言っていいほど夫が首を縦に振る絵が想像できない。
とはいえ、千鶴たちだって情に訴えかけてなんとかなると思っているわけではなかった。
「現実が厳しいのは分かるよ。音楽で食べていけるのなんて、ほんのひと握りの人だけだってことも。でも、知佳が本気で頑張りたいって言ってるんだから、その背中を押してあげるのだって親の役目でしょう?」
「子どもが道を踏み外しそうなときに、正してやるのが親の役目だろ」
「踏み外してないから。音大生に失礼すぎでしょ」
知佳の鋭い声が飛ぶ。
「何だその口の聞き方は?」
憲武も凄む。
このままでは本題から話がどんどん逸れていくので千鶴があいだに割って入る。
「落ち着いて。2人とも。けんかするために話してるんじゃないでしょ」
2人が同時に舌打ちをする。
けっきょく似ているのだ、この2人は。
ただ違うのは抱え込んだ傷があるかないか。それだけが違うから、2人は相容れない。
だから千鶴は憲武に問いかける。
「何でそんなに反対なの?」
「何度も言ってるだろ。現実は甘くない」
憲武の態度は頑なで、取り付く島もない。だから大きく1歩、千鶴は歩み寄る。寄り添うのではなく、娘の本気に答えるために。たとえ夫の傷をえぐっても、胸座を掴むために。
「現実って、バンドのことよね?」
「え」と呟いたのは、隣に座っている知佳だった。だが千鶴は構うことなく憲武を見ていた。
「いいだろ。そんな昔の話は関係ない」
「よくない。関係もある。ちゃんとお互いのこと話さなきゃ」
「ねえ、ママ。バンドってどういうこと?」
「パパ、昔バンドをやってたの。ママと知り合ったのは辞めたあとだったから、直接聞いたことはないんだけどね。付き合い始めのころ、まだパパの家にはギターとか楽譜とかが残ってた」
「知らなかった」
「言ってないからな」
「もしかしてさ、自分がバンドで駄目だったから、私の音大にも反対してんの?」
憲武は観念したように小さく息を吐く。
「俺は夢を追った結果、何も得られなかった。むしろ失ったものばかりだった。28歳までバイトしながらバンドをしてたから就職活動は死ぬほど苦労したし、最後はバンドメンバーとだって険悪になって解散したから、どこで何してるかだって知らない。もっと早く引き返してたら、そもそもバンドでメジャーデビューなんて絵空事を考えついていなければって何度思ったことか」