私は大丈夫
言葉のひとつひとつが重く響き、部屋の空気を軋ませているようだった。知佳は黙って聞いていた。きっと、憲武の当時の苦しみや後悔に近づけるとすれば、それは千鶴ではなく、知佳なのだろう。
「上手い下手だけじゃないんだよ。努力が報われるわけでもない。出会いとか、タイミングとか、運もある。そういうのは自分の力じゃどうにもならないことばかりだ。何で俺たちより下手くそなバンドが先にレーベル契約結べるんだって苛立ったことも、1度や2度じゃない」
夢に敗れる。文字にすれば簡単だが、追い続けた夢に手を伸ばすことを辞めるとき、一体どれほどの痛みを伴うのか、千鶴には計り知れない。
「もちろんクラシックとバンドが全然違うことは分かってる。でも、絶対に知佳にはそんな思いをしてほしくないんだよ。若気の至りで不確実な道を進むんじゃなく、ちゃんと幸せになれるほうに進んでほしいんだ」
だがそれでも、憲武と知佳は違う。似ているが、まったく別の人間だ。
「なんだ、そんなこと。だったら関係ないじゃん。私は別にパパじゃないもん。パパが辛かったのは、それはそうなんだろうけど、私は大丈夫」
「お前な、そういうこと――」
「そういうことだよ。別に絶対に成功して音楽で生きてく、とか言ってるわけじゃないよ。パパは音楽やってた自分を否定してる。成功できなかったから。でも私は違う。どんな結果になったって、私は音楽をやってきた自分を否定しない。だって、私にとって音楽は人生だもん」
知佳の言葉は真っ直ぐで、そして眩しかった。
それから知佳は、以前話してくれた大学で教わりたいサックスの先生のこと、受験までの過ごし方や奨学金のこと、教職課程を履修した場合のシミュレーション、自分のレベル別に考えた卒業後の選択肢を憲武に説明した。
おそらく自分なりに考え、憲武に伝えられるように考えたのだろう。もちろんまだまだ甘い部分もあったが、それでも熱意だけは確かに憲武の胸を打ったようだった。
「学費については、私もパートを始めて協力する。もちろん全額とはいかないけど、今から備えておけば、差し引いて普通の私立大に通うのと大して変わらないくらいになるでしょう?」
「私、もしここで音大を諦めたら、絶対に後悔する。やれることは全部やりたいの。やる前から諦めるなんて、それこそ中途半端だから」
腕組みをした憲武は黙って目を閉じていた。知佳と千鶴は息を呑んで待った。出せるものは全て出した。伝えられることは全て伝えた。
やがて憲武が目を開け、ゆっくりと言った。
「分かった。知佳のやる気は理解した。頑張ってみなさい」
「まじ? いいの?」
憲武はうなずいた。
思わず顔を見合わせた知佳と千鶴は、自然と手を打ち鳴らしていた。