間借り開業へ向けた助走

それからは怒涛の日々だった。

店の名前やオリジナルカップのデザイン決めにはこだわりたかったし、食品衛生責任者の講習を受けたり、原価計算などの事務作業もしなければいけない。柏木は手伝うと申し出てくれたけれど、美月はできる限りすべて自分で行い、どうにも困ったときだけ柏木に頼ることにしていた。自分の店なのだから、できる限り自分の力でやってみたかった。

要である豆の仕入れは、かつてマルシェで知り合った焙煎士の人に連絡すると快く相談に乗ってくれた。

ゆっくりと味わってもらえるようなコーヒーという希望を伝えると、焙煎士はいくつかの提案をしてくれて、何度も試飲をしてみた結果、浅煎りのエチオピア産の豆を軸にしたフルーツっぽいフレーバーのコーヒーとブラジル産の豆を軸にした深煎りのブレンドの2種類をメニューに並べることにした。

カフェ〈タル・コーヒー〉開業の準備が整った。

ついに夢の開業へ

開店当日、美月は朝早くに店にやってきていた。まだ店内には誰の姿もない。美月はカウンターやテーブルの上に手作りのメニュー表を置いた。何度も考えて決めたものがそこには記されていた。

厨房に入ってまずはブラジル産の深煎り豆の袋を開けた。ナッツのような香ばしさとほろ苦いチョコレートのような香りがふわりと広がった。続いてエチオピア産の豆の袋を開けると、今度は果実のような明るい酸味を思わせる香りが立った。

自分で選んだ2種類のブレンドを前にして、美月はついにこれから始まるのだと気を引き締めた。

準備を進めていると裏口のドアが開く音がした。柏木の姿があった。

「あ、おはようございます」

「早いね。まあそれもそうか。今日が初日だからね。俺もその気持ちは何となく分かるよ。まあでもあまり気張りすぎないで。こっちも仕込みをやっちゃうから気にしないで準備して」

柏木はそのまま厨房に入ろうとするのを美月は呼び止めた。

「柏木さん、本当にありがとうございました。ここまでしてもらって……。このご恩はいつか必ず返します……!」

「店が繁盛してくれたら俺にも利益が出るんだから。それでいいんだよ」

「……それだけじゃダメです。私は気持ちだけが先走って現実を見れてませんでした。でも柏木さんのおかげで店を開くということが、いかに大変なのかを教えてもらいました。しかも開店っていう夢まで叶えてもらって……」

柏木は真面目な顔で美月を見た。

「……もう満足してる?」

美月は柏木の質問にはっとして首を横に振った。

「いえ、これはスタートでしかないです。私の夢は多くの人に私の淹れたコーヒーを飲んで幸せな気持ちになってもらうことなので……!」

美月の言葉に柏木は頬を緩めた。

「そうか。だったら記念の1杯目をもらってもいいかな」

「はい! 今すぐ準備します!」

美月は元気に答えて、カウンターに向かった。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。