泣いて帰ってきた梨歩
夕方、典江が洗濯物を取り込んでいると、玄関の扉が開いた。
「ただいま……」
いつもよりか細い声だった。
典江が廊下へ出ると、梨歩はランドセルを背負ったまま固まっていた。目元が赤く、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「どうしたの?」
典江が近づいた途端、梨歩はこらえていたものが切れたように泣き出した。
「ダッシュ婆が……怖かった」
PTAの集まりで何度も聞いた名前に、典江はさっと血の気が引いた。
「ゆっくりでいいから話して。何があったの」
リビングでランドセルを下ろさせると、梨歩は袖口で涙を拭きながら、途切れ途切れに話した。
「なっちゃんと帰ってたら……急に大きな声で怒鳴られたの」
「ダッ……高木さんに?」
「うん。すごい怒ってた。こっちに走ってきて、腕をぎゅってされて……怖かった」
「え、大丈夫? どこつかまれたの? 痛くない?」
「うーん、この辺?」
梨歩の手首を見たが、目立つ痕はない。しかし、梨歩が怯えているという事実だけで十分だった。噂で聞いていたことが、とうとう自分の家にも降りかかってきたのだ。
書斎代わりの小部屋で仕事をしていた夫も、泣き声に気づいて出てきた。
「どうした」
典江が説明すると、夫は梨歩の前に膝をつき、静かに話を聞いた。梨歩はまた同じように「怖かった」「怒鳴られた」と繰り返す。
「私、高木さんのとこ行ってくる」
夫は顔を曇らせたが、すぐには典江に同調しなかった。
「まずは学校に連絡した方がいいんじゃないか」
「学校は何もしてくれないよ。今までだって何度も問題になってたのに解決してないんだから」
「そうかもしれないけど、梨歩の話だけを聞いて、直接怒鳴り込むのはやめた方がいい。何があったのか、詳しくは分かっていないんだから」
その言い方に、典江は眉を寄せた。
「自分の娘を疑うの?」
「そうじゃない。でも物事には順序がある。感情的になっても、余計にこじれるだけだと思う」
夫が間違っているとは思わなかった。しかし、ソファの端で膝を抱える梨歩を見ると、冷静ではいられなかった。このまま黙っていたら、また同じことが起きるかもしれない。典江は立ち上がり、玄関へ向かった。
「ちょっと話してくる」
「典江、待って」
夫の制止を背中で聞きながら、典江は靴を履いて家を飛び出した。外はもう薄暗く、高木の家へ続く道が、やけに長く感じられた。
