典江が小学校の多目的室に入ると、長机の上には通学路の地図と、来月の登校見守りの当番表が並べられていた。横断歩道の立ち番、不審者情報、危険箇所の確認。PTAの集まりには何度も参加しているが、こうした資料を見るたびに、気が引き締まる思いがする。
「沢村さん、こっち空いてるよ」
娘の梨歩と同じ3年生の保護者に呼ばれ、典江は資料を手に席へ着いた。話し合いは順調に進んでいたが、通学路の確認に入ったところで、1人の母親が声をひそめた。
PTAで囁かれる「ダッシュ婆」の噂
「また高木さんの話、出てるみたい」
高木八重子。学校の近くに住む70代くらいの女性で、子どもたちの間では「ダッシュ婆」と呼ばれ、半ば都市伝説的な存在として知られている。
「うちの子も、この前、大声で怒られたって言ってた」
「追いかけられた子もいるんでしょう?」
「腕をつかまれたって話も聞いたよ」
次々に出てくる話に、典江は気が重くなるのを感じた。
最初に聞いたときは、そこまで深刻に受け止めるべきか迷った。しかし、似たような話が何度も出てくると、ただの噂として流すことはできなかった。別の学年の保護者からも、下校中に怒鳴られた、後ろから近づいてこられたという話が出ている。何より梨歩の通学路に高木が出没する以上、典江にとっても他人事ではなかった。
「学校には伝えてあるんですか」
典江が尋ねると、役員が困ったように資料を見下ろした。
「一応、相談はしているみたい。ただ、はっきりした被害として扱うのは難しいところもあって」
「でも、子どもが怖がっているなら放っておけませんよね」
「そうなんだけどね。ご近所の方だから、あまり大ごとにもできないし」
集まりが終わると、典江は数人の保護者と校門まで歩いた。夕方の通学路には、子どもたちがちらほら残っている。横断歩道の向こうには古い住宅が並び、その一角に高木の家があると聞いていた。
「沢村さんのところも、あの道を通るよね」
「うん。そうなんだよね」
典江は答えながら、自然と道の先へ目を向けた。
家に帰ったら、通学路では周りをよく見るように言おう。高木には近づかないようにとも伝えた方がいい。典江はそう考えながら、校門を出た。
穏やかな夕方の空の下で、通学路を走る車の音だけが、妙にはっきりと耳に残った。
