まだ肌寒さの残る春の朝、佐奈は開け放したクローゼットの前に立っていた。足元の段ボールから今シーズンの服を引っ張り出し、次々とハンガーラックにかけていく。

「なんか懐かしいな、こういうの」

ぽつりとつぶやくと、前の部屋から持ってきた組み立て式の本棚が目に入った。

大学入学と同時に1人暮らしを始めたころに買ったものだから、かれこれ10年近く愛用していることになる。あのころは8畳のワンルームですら、自分だけの城に思えたものだ。

ちょっとした感傷にふけりながらカットソーを畳んで衣装ケースに入れたそのとき、床に置いていたスマホが鳴る。拾い上げると、画面には職場の後輩の名前が出ていた。応答した途端、明るい声が耳に届く。

「小園さん、お休みの日にすみません。月曜の会議資料、最終版って共有フォルダのどこでしたっけ」

「営業2課のフォルダの中。『定例会議』っていうのがあるでしょ。その中の4月分」

「あ、ありました。助かります」

「よかった。私昨日、フォルダ整理しようとしてやめたから」

「やめて正解です。今変えられたら、たぶん全員迷います」

電話の向こうで小さく笑う気配がして、佐奈もつられて口元をゆるめた。

先月、担当していた案件が区切りを迎え、部署の中での役割が少し変わった。昇進というほど大げさではないが、今までより任されることは確実に増えた。それを機に自分の生活を、きちんと整え直したいと思い、佐奈は転居を決意したのだった。

新しい暮らしへの期待

「荷解き、終わりそうですか」

「いや全然。ほんとは今日で終わらせたかったんだけどね」

「そうなんですか? でも新しい部屋、結構いいところなんですよね」

「まあ、前よりはちゃんと暮らせそうかな」

「また遊びに行っていいですか」

「うん。落ち着いたらね」

通話を切ると、部屋の中はまた静かになった。窓の外では、近くの通りを走る車の音が、途切れず一定の間隔で聞こえてくる。佐奈は段ボールを潰し、ありったけの服を詰め込んでも、まだスペースに余裕のあるクローゼットを満足げに眺めた。引っ越し前の部屋では、少しでも場所を節約するために、いろんな100均グッズを駆使していたことを思い出す。

「10年か……長かったな」

口にしてみると、時間の重みが現実のものになる。

前の部屋に名残惜しさがないわけではない。だがそれ以上に、新しい部屋で過ごす日々への期待のほうが強かった。部屋中に積み上がった段ボールを見渡しながら、佐奈は次は本棚だ、と腕まくりをした。