人生の歯車を狂わせた挫折の連続

それに対し、恒司の方は就活で大苦戦をしたようです。何でも人任せの性格が災いしたのか、大学受験で三浪もしてやっと都内の中堅大学の文学部に入学したのですが、思えば、その頃から恒司の人生の歯車は狂い始めていたのかもしれません。

文学部ですから、周囲は女子だらけ。しかも、大半は現役合格で3つも年下ですから、彼女どころか友達もろくにできなかったでしょう。それが原因で大学に通わなくなり、3年生になるタイミングで1年留年。恒司の年代はいわゆる就職氷河期だったこともあり、3浪1留で甘ったれの文学部男子など採用してくれる企業はなかったようです。

やむなく義兄の口利きで教育関係の出版社に入ったのですが、営業が性に合わず数カ月で出社拒否状態となり退職。静養してまた就活に励むのかと思いきや、イギリスに留学することになったと聞いて驚きました。大学で演劇を学ぶことにしたのだそうです。義兄は猛反対したそうですが、姉が「恒司の人生がかかっているんだから」と押し通しました。

私でさえ正直、「大丈夫なの?」と思いました。恒司の専攻は日本文学、英語が話せるなんて話は聞いたこともありません。案の定、半年ほど語学学校に通っていただけで大学の入学試験は全滅してあえなく撤退してきました。以降は義兄の勧めで私立高校の非常勤講師などをしたりしましたが、35歳を過ぎるとそんな話も来なくなり、居候生活を送るようになりました。

万起子の方は、そんな弟や弟にめっぽう甘い母親を冷ややかな目で見ていたようです。しかし、姉に意見をするわけでなく、親から距離を置くことで抵抗を示していたのだと思います。万起子は義兄とは仲が良く年中メールでやり取りをしていましたし、義兄が学会で名古屋や京都に出かけた時には一緒に食事をしたりしているようでした。

ですから、姉が末期がんと診断された後、万起子がいろいろ姉の世話を焼いてくれたことは意外でした。