電車に揺られながら、佳則は仕事から帰っていた。最寄り駅のアナウンスが、空気のよどむ車内に響く。その瞬間、年がいもなく、佳則の心は躍った。もちろん41歳という年齢なので、顔に出さない。しかし子供の時だったら飛び跳ねて電車から降りていたに違いない。
駅前の駐輪場に止めていた自転車を全速力でこいで、佳則は帰宅する。
「ただいま」
息を弾ませながら、玄関を上がると、妻の奈々子が笑顔で迎えてくれた。
「おかえり。ご飯、準備するね」
「うん、お願い」
奈々子とは2年前に知人の紹介で知り合った。
一目ぼれだった。出会って2回目のデートで交際を申し込んだ。当時すでに39歳という結婚にはかなり出遅れた年齢だったが、奈々子はそんな年齢を気にせず佳則を受け入れてくれた。
付き合い初めてから3カ月でプロポーズ。もちろん2人の年齢を考えると早いほうがいいだろうという気持ちもあったが、それ以上に佳則は奈々子と家族になりたいという、生まれて初めて抱く強い衝動に突き動かされたのだ。
佳則はできるだけ小さい声で奈々子に声をかける。
「美波は?」
奈々子は笑ってリビングを指した。
はやる気持ちを抑え、佳則は洗面台で手を洗い、部屋着に着替えてリビングへと向かった。リビングのマットの上で美波はおもちゃを持って遊んでいる。ふわふわと柔らかそうな小さい背中を見るだけで、佳則の頰は思わず緩んだ。
「美波ちゃ~ん、パパですよ~」
佳則は猫なで声で声を掛けながら、美波に歩み寄っていく。気付いた美波は佳則を見て、満面の笑みを浮かべた。この笑顔を見るだけで、本当に一日の疲れが吹っ飛んだ。
そこから佳則はとにかく美波に声をかける。まだ簡単な単語しか話せないのだが、美波が何となく反応を示してくれるのがうれしかった。
「ほら、ご飯できたよ。私が美波を見てる間に食べちゃって」
美波はだいたい21時前には寝てしまう。今が20時なので、一緒にいられる時間は1時間もない。そう思うと、食事をしている時間すらもったいなく思えてくる。急いでご飯をかきこんでいると、あきれたように苦笑いを浮かべる奈々子が向かいの席に腰を下ろす。
「そんな焦らなくても、美波はどこにも行かないわよ」
「いや、あとちょっとしか一緒にいられないからさ」
「明日も一緒に遊べるって」
佳則は首を横に振る。
「いやいや、そんなことを言ってたら、いつの間にか大きくなっちゃうから。それこそ、明日には立って歩くようになるかも」
「まだ大丈夫よ。つかまり立ちだって、できないんだから」
佳則はおもちゃで遊ぶ美波を見つめる。
「美波が立って歩くところは絶対にこの目で見たいんだよね」
「それじゃ、毎日、目をこらして美波を見逃さないようにしないとだね」
ほほ笑んだ奈々子の隣りで、佳則は温かな家庭の幸せをいつも実感するのだった。