プラザ合意後の日本

プラザ合意前には240円前後だったドル円はプラザ合意後に急速にドル安に振れていき、わずか1週間で210円台まで下落します。そのまま200円割れが見えてくる状況で1986年を迎えると、その後もドル下落の勢いは続き、1988年の120円台でようやく下げ止まります。この下げ幅は当初のプラザ合意で想定されていた水準を大きく超えたものでした。

いったん勢いに乗った為替のトレンドは、政治的な思惑でも止められないことを示すことになりました。

円高不況による低金利政策

プラザ合意後の円高ドル安は、アメリカへの輸出で大きな利益を得ていた日本に大打撃を与えます。日の出の勢いだった製造業は円高にあえぎ、1987年までは深刻な不況に陥りました。

この不況に対する日本の景気対策は、金利引き下げでした。日本銀行は公定歩合(当時の政策金利に当たるもの)をプラザ合意当時の5%から2.5%にまで引き下げます。

地価と株価の高騰

金利の引き下げは、企業が資金調達をしやすい状態になり、設備投資などを拡大することを狙って行われました。しかし、金利引き下げの効果は、それ以外にも波及します。融資の資金が土地や株式の購入にも流れ、地価や株価の高騰を招いたのです。バブル景気の到来です。

空前の土地ブーム

土地の売買が盛んになった背景には、国土の狭い日本に根付く「土地の値段は下がらない」という考えがあるといわれています。

実際にバブル期以後の地価は下がったものの、下げ幅は緩やかでした。これに対して、バブル期には地価が毎年数十%も跳ね上がる異常な状態だったのです。とにかく土地を買えば値上がりするので、「地上げ屋」や「土地転がし」などが横行し、銀行も土地を買うためならどんどん融資するようになりました。

その結果、都会では地価が上がり過ぎて、相続税が払えずに住み慣れた家を手放さざるを得ないケースが多発しました。また、いたずらに地価の上昇を招く短期の土地売買を規制するため、所有期間5年以内の譲渡に高い税率が設定されるようになりました。