・円安・物価高で生活苦も日銀は静観…“日本だけ”金融緩和継続はなぜ?

1985年9月22日にニューヨークのプラザホテルで発表された「プラザ合意」は、ドル安に向けた先進5カ国の協調介入への合意でした。プラザ合意は世界経済に多大な影響を及ぼし、日本のバブル景気の発端ともいわれています。

プラザ合意とは?

1985年当時、アメリカは過度なドル高による貿易赤字に苦しんでおり、そのアメリカの呼び掛けでアメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス、日本の財務大臣と中央銀行総裁による会議がプラザホテルで行われました。この会議上で、基軸通貨であるドルに対して各国通貨を10%から12%切り下げるために為替市場で協調介入を行うことが合意されたのです。ドル安に誘導しアメリカの輸出競争力を高めることが、プラザ合意の主目的でした。

プラザ合意の背景

アメリカが半ば強引にプラザ合意を推し進めた背景には、レーガノミクスによる「双子の赤字」問題があります。レーガン政権は減税と軍事費増大で、もともと赤字だった財政収支をさらに悪化させます。財政赤字解消のために高金利政策をとった結果、ドル高になり、貿易赤字が拡大することになりました。財政赤字と貿易赤字は「双子の赤字」と呼ばれ、アメリカ経済は危機的な状況に陥ったのです。

1985年当時の日本

プラザ合意が採択された1985年当時の日本経済は活気にあふれ、アメリカへも多くの日本製品が輸出されていました。実際、アメリカの貿易赤字の主たる相手国は日本でした。価格競争力の高い日本の自動車や半導体がアメリカ国内でシェアを伸ばし、アメリカ側は日本に対して貿易不均衡への不満を募らせます。アメリカ側は不均衡是正のためにさまざまな要求を突きつけてきたり、日本のビジネスのあり方を批判するなどの「ジャパンバッシング」を繰り広げたりしました。それに対し、日本側はアメリカの高金利などが原因であると主張し、一方的な批判をかわしていました。

このような状況で開催されたプラザホテルでの会議。表向きは参加5カ国での協調が合意されましたが、切り下げのターゲットはドル円だったのです。

なぜ、日本は自国に不利な切り下げに同意したのでしょうか。それは、日本の最大の貿易相手国であり、世界一の経済大国であるアメリカの経済危機は、日本にとっても避けなくてはならなかったからです。また、軍事的にアメリカに依存せざるを得ない日本には、譲歩も必要だったのです。