母への愛情から、介護を一手に引き受ける
二宮氏が母親の介護に直面したのは20代後半の頃。新婚生活を踏み出した矢先、突然母親が脳出血で倒れた。手術・入院を経て一命を取り留めたものの、右半身に後遺症が残り、言葉も上手く話せない状態に。入浴やトイレなどすべてに介助が必要だったという。
つきっきりじゃないと、面倒を見ることはできない——。そう考えた二宮氏は、両親が居住していた実家に夫婦揃って住まいを移した。母親の介護費用は企業勤めをしていた父親が捻出。二宮氏は教職を辞し、母親の介護に専念することにした。しかし、「今思えば、介護離職にまで踏み切らないほうが良かった」と当時を振り返る。
「私の収入がなくなったこともあり、母の介護費用やその後の葬儀、墓の費用まで、すべて父が負担することになりました。その結果、父の貯金が尽きかけてしまい、父の老後の生活を私たち夫婦が支えなくてはならなかったのです」(二宮氏、以下同)
特別養護老人ホームなどに母親を預ける選択肢もあった。こうした施設の利用では国の介護保険制度が適用されるため、入居費用の自己負担割合は基本的に1割で済む。離職せず、安定した勤労収入が見込めれば経済的な負担もいっそう少なくできたはずだ。しかし、二宮氏は仕事を辞めて母の介護を一手に引き受ける道を選んだ。
「昔から優しく接してくれた母が大好きだったので、自ら愛情をもって、献身的に介護をしてあげたいと強く思っていたのです。また、母はもともと病気がちで、私が幼い頃から入退院を繰り返していました。病床の母のために着替えを持って行くなど、世話をする機会も多かったので『母の面倒は私が見てあげないと』という想いが、幼少期から根付いていたのかもしれません」
また、二宮氏の母親は当時62歳。介護施設を利用する高齢者の多くが80〜90代であることを考えると、一般的な介護施設利用者より一回りも若かった。入所しても上手くなじめないのではと不安を感じ、利用に踏み切れなかったという。訪問看護などの在宅サービスを利用する手もあったが「当時は介護サービスに関する知識に乏しく、介護で心身ともに疲弊していたので、そのほかの選択肢が見えていなかった」と思い返す。
それでも母親への愛情の一心で介護に向き合い、母親の最期を支えることができた。二宮氏は当時を振り返り「介護を乗り越えることができて安心しましたが、思えば私を献身的にサポートしてくれた夫には大きな負担をかけていた」と話す。
「当時、私は母親の介護もあり、自由な時間をほとんど持てませんでした。ただ、夫は新婚だったこともあり、もっと2人の時間を大切にしたいと思っていたようです。『あの頃の生活は本当に大変だった』と、母の介護が終わった後に夫から言われました。それから、家族をないがしろにするくらいなら、介護サービスを積極的に利用してもいいのではないかと考えるようになったのです」
●父親にも介護が必要に……母親の介護で得た教訓はどう活かされた?
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取材・文/藤田陽司(ペロンパワークス)