物価高と金利上昇のなかで語られる減税政策。それは生活防衛という顔を持つ一方で、「将来への請求書」でもある。
いま日本が直面しているのは、分配か投資かという単純な二択ではない。国家の設計思想そのものを、どの座標に置き直すのかという、より根源的な問いである。
“種籾”を守った者たち
私たちはいま、何を見極めるべきなのか。
かつて、暴れ川に挑んだ武田信玄は、目先の収穫に窮する領民の不満を一身に背負いながらも、二十年の歳月をかけて信玄堤を築き、不毛の地を沃野へと変えた。また、維新の動乱期に立った大久保利通は、士族の激しい反発を押し切り、国家の命運をかけて殖産興業とインフラ整備に資源を集中させた。彼らは、飢えを凌ぐために“種籾”を食べてしまう誘惑に抗い、数十年、数百年先を見据えて国家の設計図を書き換えたのである。
いま我々が直面しているのも、これに劣らぬ転換点だ。長きにわたるデフレで干上がった大地に、インフレと金利上昇という奔流が押し寄せる時代。経済の水循環が変わり、社会の生態系そのものを造り替えざるを得ない局面に、日本経済は足を踏み入れている。
旧来の経済構造はすでに耐用年数を超え、至る所に歪みが露呈している。中断の許されない刷新の最中に、今回の衆議院選挙は行われている。
一時的な還付と土壌改良の峻別
各党が選挙戦で盛んに語る減税政策は、有権者には即効性のある救済策として映る。物価高に苦しむ人々にとって、それが切実な支えであることは否定できない。政治が果たすべき人道的役割の一面でもある。
問題は、その政策が将来の果実を先食いする分配なのか、それとも次の収穫を生む投資なのかという点にある。堤防の補修費を削って配り物を増やした集落が、次の洪水で姿を消した例は歴史に多く残る。喝采を集める政策ほど、慎重な検証が必要である。
とりわけ留意すべきは、金利ある世界への移行過程で生じている、いわゆる「財政ボーナス」だ。物価上昇に伴い税収が自然増したかのように見えるこの現象は、あくまで名目上の一時的余裕にすぎない。
金利が正常化すれば、膨大な国債残高に伴う利払い負担は、静かに、しかし確実に財政を圧迫する。移行期の余剰を恒久財源と誤認し、それを前提に減税や恒常的支出を積み上げることは、将来の市場動揺を招く致命的な判断ミスとなる。
金融市場は、こうした誤認に対して常に無言の警告を発する。国債金利の上振れ、イールドカーブの歪み、通貨の変動……。金融市場は、誰が政権を担おうがお構いなしに、財政の楽観論に容赦がない。
「予算編成の刷新」という核心
自民党の政権公約を見ると、「強い経済で、笑顔あふれる暮らしを。」というキャッチフレーズの下、危機管理投資・成長投資、経済安全保障、所得拡大・生産性向上といった看板政策が並ぶ。
その中で筆者が最も注目するのは、財政運営に関する次の一節である。
補正予算を前提とした予算編成と決別し、経済成長による税収増なども勘案しながら、必要な予算は当初予算で措置します。投資のための「新たな予算枠」を設定し、市場の信認を得ながら複数年での機動的な財政出動を可能にします。
これは、個別政策の羅列ではなく、予算編成という国家のOSを入れ替えようとする試みと読むべきだろう。
従来、日本の財政運営は、官僚が作成する(硬直的な)当初予算と、政府が後追いで積み増す(規模が限られる)補正予算という継ぎ接ぎ構造を常態としてきた。今回示唆されているのは、当初予算そのものに政府の意思をしっかりと埋め込み、単年度の帳尻ではなく、複数年度で政策効果と財政負担を管理する枠組みへの転換である。
これは、予算を前例踏襲の管理装置から、戦略的投資のツールへと再定義する挑戦とも言える。
だが、このエンジンの積み替えは、成功すれば大いなる前進だが、失敗すれば致命傷になる。政治主導が戦略ではなく人気取りに堕した瞬間、複数年枠は際限なき膨張装置と化す。最初の予算編成で、説明責任の曖昧な支出や効果測定の不在が常態化すれば、それは失敗の兆候である。
国の未来に責任を持つ人々に求められることは何か。第一に政治家には、「何をやらないか」を明確に決める覚悟が求められるだろう。すべてを積極化することは、結局は何も選ばないことに等しい。真に未来を創る分野に資源を集中し、それ以外は厳格な規律下に置く。その冷酷さこそが、市場の信認を生む。
第二に官僚には、専門性を変革のブレーキではなく、精度を高める武器として差し出す姿勢が求められる。政治の意思を実行可能な政策に翻訳し、税金を死に金にしない責務は重い。説明を避けるための複雑さは、もはや許されない。
第三に、そして最も重要だが、私たち国民自身もまた、給付の受け手であるだけでなく、国家という共同事業の出資者としての視点を持つ必要がある。中長期のリターンを評価する投資家としての国民意識が、政治の質を底上げする。
規律と循環――私たちへの問い
自民党が掲げる官民GX投資やAI・半導体支援といった未来図を支えるのは、規律ある財政運営と金融の循環である。名目成長率が金利を上回る状態を維持し、債務の安定を図る姿勢は、金融市場という冷酷な審判に耐える最低条件であり、真に問われるのは、政策の総額ではなく、投資効率である。
資産運用立国も同様だ。NISAやiDeCoという制度の器が整ったいま、次に問われるのは、その資金がどの未来を支えているのかという説明力である。利回りだけを語る時代は終わりつつある。
選挙の熱狂はいずれ冷め、設計図は現場に降りてくる。もし、予算編成の刷新が実現した場合、それが単なる裁量拡大に終わるのか、治水の思想として機能するのかは、政治の覚悟、官僚の知見、そして私たち国民の眼差しにかかっている。果たして選挙後の政権は、目先の配当を食い潰すのか。それとも、未来の土壌を、静かに、しかし確実に耕すのか。

