好きなことを仕事にする責任
無事に資格を取得し、ヨガインストラクターとして働き始めた梨絵は、以前とは違う種類の忙しさに追われていた。
自分で身体を動かすだけなら気楽だったが、教える側になるとそうはいかない。参加者の経験に合わせて内容を組み、説明の順番を考え、決められた時間内にレッスンを終える必要がある。最初のころは時計を気にする余裕がなく、予定していた流れを崩してしまうこともあった。
「今日、最後ちょっと駆け足になっちゃいました」
レッスン後、梨絵が先輩講師にこぼすと、相手は笑った。
「最初から全部うまくできる人なんていませんよ。次回から気をつければ大丈夫です」
「そうですよね。次は呼吸の時間を少し長めに取ってみます」
趣味から仕事になった以上、その責任は、会社員時代とは形こそ違っても確かに存在していた。
収入の差も歴然だった。初めて給料が振り込まれた日、梨絵は通帳アプリの数字を見て、小さく息を吐いた。
「やっぱり、ずいぶん減ったなあ」
以前なら即決していた買い物も、今は一晩考えてから決める。外食の回数も減った。賞与の時期が近づけば、かつての安定した待遇を思い出すこともある。それでも、不思議と会社員に戻りたいとは思わなかった。
自分が救われた場所で働く今
ある日の初心者向けレッスンで、何度か参加している女性が梨絵に声をかけた。
「先生に教えてもらった呼吸法、家でもやってるんです。そうしたら前より少し身体が楽になった気がして」
「本当ですか。少しでもお役に立てたならよかったです」
「はい。ここに来ると、仕事のことを忘れられるんです」
その言葉に、梨絵は一瞬返事を忘れた。
自分もそうだった。
休職中、何をしていいか分からず、ただ気分転換になればと思ってヨガを始めた。レッスンの間だけは会社のことを考えずに済み、そのわずかな時間にずいぶん助けられた。今度は自分のレッスンが、誰かにとっての癒しになっている。そう思うと誇らしかった。
「そう言っていただけてうれしいです。一緒にリラックスしましょうね」
「はい。また来週お願いします」
生徒たちを見送ると、梨絵は自分用のタンブラーとヨガマットを抱えてスタジオの扉を開けた。運動後のほてった頬に廊下の冷たい空気が心地よい。更衣室に向かう途中、ガラス張りの大きな窓を覗くと、オレンジ色の街灯がどこまでも続く歩道を照らしていた。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
