安定と好きの間で揺れる梨絵
講師に誘われてから数日、梨絵は昼休みになるたびスマートフォンを開いていた。
インストラクターになれば、今より収入は大きく下がる。賞与や福利厚生を含めれば差はさらに広がるうえ、今の会社で手にした安定を、自分から手放すことになる。
「楽しいからって、それだけで決めていいのかな……」
帰宅してからも、何度も同じことを考えた。
昇給したときのうれしさも、大きな案件を任されたときの誇らしさも覚えている。会社で過ごした年月を後悔しているわけではない。人前で話す力も、物事を整理して伝える力も、そこで身につけたものだった。
「私、ここまでよく頑張ってきたなあ」
梨絵は机の上に置いた資格のテキストへ目を落とした。
今までずっと、評価されること、期待に応えることを当たり前のように追い続けてきた。
だがヨガは違う。誰かに勉強しろと言われたわけでもない。仕事で疲れた日でも通いたいと思い、分からないことがあれば自分から調べた。
「私、本当に好きなんだ……」
口にしてみると、それは驚くほど単純な答えだった。
講師から「一緒に働いてほしい」と言われたことを思い返す。結果を出し続けなければ必要とされないと思ってきた梨絵にとって、自分の学ぶ姿勢や伝え方を見たうえで声をかけてもらえたことは、思っていた以上にうれしかった。これからは、自分が本当に楽しいと思えることを、自分を必要としてくれる場所で仕事にしてみたい。そこまで考えたとき、ようやく答えが決まった。
同僚を驚かせた梨絵の決断
翌日、梨絵は講師へ電話をかけた。
「この前のお話なんですが、受けさせてください」
「本当ですか。嬉しいです。一緒に働けるのを楽しみにしています」
それから会社へ退職の意思を伝え、引き継ぎを進めた。梨絵の退職理由を知った同僚たちは一様に驚いた。
「本当に辞めるの? ここまでキャリア積んだのに、もったいなくない?」
「うん。私も、もったいないとは思う」
条件だけを比べれば、その通りだ。だが、梨絵はもう迷わなかった。
「でも今度は、自分が心の底から楽しいと思える仕事で挑戦してみようかなって思ったの」
退職日、荷物をまとめた梨絵は社員証を返し、最後にオフィスを振り返った。
ここで得たすべてを捨てるわけではない。すべてが梨絵の糧になり、今に活きている。そう思いながら一礼し、梨絵はカバンを肩に掛けた。
夕方のビルを出ると、仕事帰りの人々が駅へ向かって流れていた。梨絵はその人波から少し離れ、ゆっくりと歩き出した。
