「そのマシン、私が使うつもりなんだけど」

坂上佳子は49歳になったばかり。夫の坂上慎一郎(53歳)との間にもうじき12歳になる女の子がいる。航空会社のCAとして勤務したあと、マナー講師として独立。個人事業主として企業の研修などを請負っている。

夫は大手流通チェーンの社員だったが、実績が認められ部長に昇進することに。子どもの勉強部屋も広くしたいし、思い切って東京下町のタワーマンションを購入したばかりだった。港区や湾岸エリアよりは安く買えたが、高層階は予算オーバーで低層階に入居していた。

それでも、念願のタワーマンションに住めるので、佳子は浮かれていた。タワマン入居者用のパーティールームに友人を招いたり、上層階のジムにも足繫く通って、タワマン生活を満喫していたのだが……。

 

「ちょっと、そのマシン、私が使うつもりなんだけど」

タワマンの38階に設けられた入居者用のジムで、これからトレッドミルでウォーキングしようと思っていた坂上佳子は、急にうしろから呼び止められた。

振り返ると、佳子の目の前に、大柄の女性が立っていた。

白髪隠しで染めた茶色の髪を、銀座ホステスのようなボリュームある髪型にセットしていた。紫色のサングラスをかけ、その下のメイクはかなり濃かった。トレーニングウエアを着ていても、香水は欠かさずつけたいらしく、全身からむせかえるほどの強い匂いがたち上っていた。

「はあ?」

何を言われたのかよく理解できなかったので、佳子が曖昧に返事をしたところ、その「美魔女」が大きな声で繰り返した。

「それ、私のマシンなんで、どいてくれます?」

ようやく意味が分かった佳子は、少しムッとしてしまった。

ジムはタワマン入居者なら自由に使えるはずだった。事前にマシンを予約する必要もなく、早い者勝ちだ。

佳子はマナー講師をしているせいもあって、逆に、他人のマナー違反には目くじらを立ててしまいがちだった。そのせいか、美魔女に向かって、つい反論してしまったのが運のつきだった。

「性格の悪い女だねえ!」

「私が先に使っているんですよ。申し訳ありませんが、順番を守っていただけます?」

佳子がそう言った瞬間、きっと音を立てて美魔女が佳子を睨んだ。

「どういう意味? まるで私が横入りしたみたいじゃない?」

なんて図々しい言いぐさだろうと、佳子は啞然としながらも、堂々と反論した。

「でも、実際横入りじゃないですか」

「まあ、なんて言い方! 性格の悪い女だねえ!」

美魔女が佳子に詰め寄る。佳子は思わず二、三歩後じさりした。

「ここは私の特等席なの。他の人に使ってほしくないのよ。他人の汗が飛び散ると汚いし、臭いから!」

「でもこれ、あなたの所有物じゃないでしょ。ジムは共有フロアですよ!」

佳子としては、まったくの正論のつもりだった。自分は何も間違ったことを言っていない。そうした思いがあるせいで、つい言い方がきつくなってしまっていた。

美魔女のほうでは、そんな佳子の言い方が気に食わない。

「随分偉そうなこというじゃない。あなた何階のどなた?」

「5階に入居した、坂上といいます」

美魔女はふん、と鼻をならした。

「たかが5階のくせに、偉そうね。私は36階よ?」

一瞬、何を言われたのか分からなかったが、ようやく「より価格が高い高層階の住人が、低層階の住人を見下すことがある」という「タワマンあるある話」に思い至った。

その頃には美魔女は佳子を押しのけて、トレッドミルでウォーキングを始めていた。

「私は36階の村西佳世子。文句があるならあとで言いにきてくれる?」

高慢な態度のわりに、歩き始めるとすぐ息があがってしまったらしく、美魔女の言葉尻はかすれていた。

坂上佳子は信じられないといった表情で立ち尽くしていたが、誰も助けてくれそうになかった。これ以上のトラブルはなんとしても避けたかったので、一旦ジムを退出することにした。

ただ、エレベーターで5階に降りる間、坂上佳子のはらわたは煮えくり返っていた。