お母さん……?

1人の少女がつま先で地面を叩きながら靴を履き、庭に下りてくる。コタロウは少女の足元をぐるぐると回り、少女はその様子を見ながら鈴の音のように笑う。
花だった。彼女は手に持っていたゴムボールを庭に放る。芝の上を転々と転がっていくボールをコタロウが追いかけ、咥えて戻ってくる。

佳世は思わずにじんでしまう視界を指で拭う。泣いている場合ではない。自分が投げ出してしまった花の成長を、もう決して見ることはできない未来を、きちんと目に焼き付けておかなくてはいけない。

「ボール遊び気をつけるのよー」

開けっ放しになっている窓の向こう側から声がする。すらりとした手足が印象的な、ちょうど佳世と同年代くらいの女性が庭先に出てきて、花に声を掛けていた。
女性がふいに逸らした視線が佳世と重なる。佳世が小さく会釈をすると、女性も同じように小さく会釈を返して微笑んだ。そして、この再会と呼ぶにはささやかな時間を邪魔してはいけないとでも思っているかのように、家のなかへと下がっていった。

いい人だった。きっと花は幸せなのだろう。もちろん大吾も、あの女性も、犬のコタロウも。そのことがたった数分、見ただけでよく分かる。そしてそれは同時に、この幸せに佳世が入り込む余地なんてないことの改まった証明でもあった。

帰ろう、と思った。幸せそうな花を見れただけで満足だった。それに、この期に及んでなお、ひょっとしたらなんてことを考えていた自分が恥ずかしかった。

踵を返し、来た道を戻ろうと足を踏み出す。もうここに来ることはないだろうと思う。いや、来てはいけないと思う。

「あ」

それなのに、背後でした声に、佳世はまんまと振り返る。見れば、庭のフェンスを乗り越えてしまったボールが道路を転々と転がっていた。

花は道路の左右を確認し、ボールを追いかけて庭から出てくる。側溝に当たって跳ね返ったボールを拾い上げ、顔を上げる。目が合ってしまう。

「……こんにちは」

花はまばたきをひとつ挟み、戸惑いを隠すように佳世に言った。佳世は固まったまま、震える声音を抑えつけるようにゆっくりと、「こんにちは」と返した。

しかし花は庭に戻ろうとはしなかった。つぶらな両目で、その場に縫い付けられたように動けなくなっている佳世のことを見上げていた。

「…………お母さん?」

自信なさげな花の声が、立ち尽くす佳世に向けられる。

何と答えるべきだろうか。答えるための言葉を、自分は持っているのだろうか。
もう視界はにじまない。それは佳世がこの世界でたった一人の娘のためにできるただひとつの愛情であるはずだ。

佳世は深く息を吸った。

伝えるべき言葉は、もう分かっている。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。