茉莉の怒りが噴出

宏隆は戸惑った。

小さな出版社で、業界全体も厳しい。賞与がないことは、当然の条件として受け入れていた。むしろ、未経験の自分を編集者として採用してくれただけでもありがたいと思っていたからだ。

「でも、収入が下がることは説明しただろ」

「給料が下がることと、ボーナスが出ないことは別の話でしょ」

「いや、でも結局、年間の収入が減るってことには変わらないじゃないか」

やんわりと反論すると、茉莉は眉を寄せた。

「変わるよ。私は、毎月の給料は下がっても、夏と冬にはボーナスが入ると思ってた」

「何か買う予定でもあったの?」

「そういう話じゃない」

茉莉の語気が徐々に強くなる。

「陽菜だって、これから大きくなれば今よりお金がかかる。習い事をするかもしれないし、学校に上がれば必要なものも増える。それに、いつか家を買おうって話してたでしょ。今すぐ使う予定がなくても、少しずつ貯めておきたいと思うのは普通じゃない?」

宏隆にも、その考えは理解できた。だからこそ、給料が下がる転職に茉莉が反対していたことも分かっている。しかし、そのうえで何日も話し合い、了承を得たのだ。

「俺は、茉莉も分かったうえで認めてくれたんだと思ってた」

「私は、あなたが『ヒット作を何冊も出していて勢いがある会社だ』って言うから、ボーナスまでないとは思わなかったの」

「あれは会社の実績の話だろ。賞与が出るなんて一言も言ってない」

言った直後、茉莉の表情が固くなった。

「だから、それを言ってないのが問題なんでしょ。ほんと信じられない」

とげとげしい態度に、宏隆にも苛立ちが湧いた。

自分は何度も転職について説明した。給料が下がることも伝えたはずだ。それなのに、今になって責められるのは納得できない。

「じゃあ、給料の内訳を事細かに全部説明しなかった俺が悪いってこと?」

「そんな言い方はしてない。でも、家計に関わることなんだから、事前にちゃんと話してほしかったって言ってるの」

「茉莉だって、事前に質問してくれたらよかったじゃないか」

「そんなことは分かってる」

茉莉はそう言うと、テーブルの上のスマートフォンを手に取り、立ち上がった。

「今日はもう話しても仕方ないね」

寝室へ向かう茉莉の背中を、宏隆は黙って見送った。静まり返ったリビングに1人残されると、昼間感じていた仕事の充実感が、どこか遠いものに思えた。

●憧れの出版社へ転職し、仕事の充実を手にした宏隆。しかし、賞与が出ないという事実をきちんと共有していなかったことで、妻・茉莉の不満が爆発する。夫婦の溝は、この先どう埋まっていくのか…… 後編【「ボーナスなし」はほんの序章…出版社転職の夫が突きつけられた妻の“本当の怒り”】にて、詳細をお伝えします。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。