すごい綺麗……
「お母さん、まさかこれ……」
母は小さくうなずいて淡々と答えた。
「そう、昔お前が成人式のときに着た振袖だよ。袴は短大の卒業式のときの」
その瞬間、雅子の脳裏に懐かしい記憶がよみがえった。
20歳の雅子が、この振袖を着て鏡の前に立っていた。
母が帯を締めてくれたこと。
あのときは父もまだ元気で、雅子の晴れ姿を見て破顔していた。
それを、母がずっと保管していたなんて。
「すごい綺麗……」
いつの間にか部屋から出てきていた真央がそっと手を伸ばし、遠慮がちに振袖の生地に触れた。母は真央を見つめ、一言だけ、静かに言った。
「真央ちゃんに、とっても似合うよ」
「いいの?」
「当たり前さ。そのためにわざわざ半日かけてこんなところまで来たんだから。この振袖だって箪笥の奥で眠ってるより、着てもらったほうが喜ぶだろうさ」
言いながら、母は帯をそっと撫でた。その仕草に、何とも言えない温かさがあった。
雅子はそんな母の横顔を見ながら、この10年のことを思い出していた。あの日から、雅子は母を避けてきた。父の延命治療を巡る対立。母の決断を受け入れられず、わだかまりを抱えたまま、ずっと距離を取っていた。けれど、母はこうして今、真央のために駆けつけてくれた。もしかすると、雅子は母のことを何も分かっていなかったのかもしれない。
「……ありがとう、お母さん」
雅子が小さく呟くと、母は「ん」と短くうなずいた。それが精一杯の「どういたしまして」のように思えた。雅子はそっと真央の肩を抱き寄せた。
「真央、これを着よう」
真央は雅子と母を交互に見つめ、やがてゆっくりと微笑んだ。
「うん……私、これ着たい。ママの振袖を着て卒業式に行く」
母が、ほっとしたように小さく頷いたのを、雅子は見逃さなかった。
リビングの時計が、静かに時を刻んでいた。
部屋にはびこっていた重苦しい沈黙が、あるいは母と娘の間に横たわる10年の沈黙が、静かにほどけていくような気がした。