<前編のあらすじ>
野球人生のすべてをかけたトライアウトの日に失敗し、プロ野球選手を引退した涼(31歳)は、これからは高校時代から支えてきてくれた妻と娘のために生きようと決意をした。
妻の実家の近くに引っ越し、就職活動を始めた涼。ハローワークの相談員は難しい顔をしながらも、地元の企業をいくつか紹介してくれて、面接までこぎつけることができた。
しかし高卒からプロ野球に入り、野球しかしてこなかった涼に社会は冷たく、面接では引退理由などを聞かれ、好機の目にさらされながら連戦連敗。野球も転職活動も成果を出すことができない涼は落ち込んでいた……。
●前編:「ビジネスソフトすら使った事がない…」元プロ野球選手の引退後に立ちはだかった“30代で未経験“の壁
懐かしい恩師からの意外な提案
連敗の数と「お祈りメール」が積みあがるだけの、うだつの上がらない日々を過ごしていたときに、懐かしい相手から電話が掛かってきた。
「久田先生、お久しぶりです」
『ああ、良かった。連絡先が変わってたらどうしようかと思ってたよ』
「いえいえ、先生に黙ってそんなことしませんよ」
久田は理学療法士で、大学時代、そしてプロになってからも何度もお世話になっていた。腰椎分離症に悩まされ、しばらく野球をすることができず、座ることすら痛い症状だったときも、久田と二人三脚のリハビリのかいもあって無事に快方に向かい、野球を続けることができた。
『引退をしたと聞いて、すぐに連絡ができれば良かったんだけど』
「お気遣いありがとうございます。こうしてご連絡をいただけるだけでうれしいです」
久しぶりになじみの声を聞いて落ち着いたのか、思わずため息が漏れた。
『……今はどうしてるんだ?』
「妻の地元に帰ってきて、転職活動してます。でもさっぱりですね。31歳まで、野球しかしてこなかったツケをがっつり支払わされてる感じです」
涼は自嘲するように笑う。
「それで、今日はどうして連絡を?」
『ああ、どうしてるかと心配になってね。家族がいるから心配はしてないが、現役生活を終えたあと、燃え尽きたようになってしまう選手も多いから』
「先生には、本当に感謝してます。こうやって、今も俺なんかのことを気にかけてくれて」
面接ではずっと冷ややかな言葉や視線を向けられていたからだろうか。久田の穏やかな声は涼のささくれ立っていた気持ちに寄り添ってくれているような気がした。
『単なる年寄りのお節介だ。感謝することなんてない。君はさ、年も背格好も全然違うけど、兄に似てるんだよ』
「お兄さんに……?」
涼と久田の付き合いはそれなりに長いが、初めて聞く話だった。
『兄はレスリングをやっていてね。それなりに有名な選手だったんだが、けっきょくオリンピックに行けるかもというところでけがに泣いた。単に強い選手なだけでは届かなかった。そのときかな、私が理学療法士になろうと思ったのは。けがで苦しむ人の力に、なりたいと思ったんだ』
けがで苦しむ人の力に――。
涼は久田の言葉を頭のなかで反すうした。実際、涼は久田に助けられた。彼がいなければ現役生活はもっと早くに終わっていただろう。
きっと今も、自分と同じようにけがに苦しんでいる選手は大勢いる。それは野球だけではない。あらゆるスポーツに、あるいはあらゆる日常に、そういう人は確かにいて、今もその現実と、自分の身体と、必死になって戦っている。
『そこで次もまだ決まっていないようだし、お節介ついでに、提案なんだが、理学療法士を目指してみたらどうだだろう』
「俺が、ですか……?」
『ああ。君はけがをした人のつらさや苦しさが分かる。だからこそ、きっといい理学療法士になる」
「俺みたいに30を超えて、何の資格がない人間でもなれるんでしょうか……」
『しっかりと学校に行って、資格を取れば、働けるよ。君みたいに30歳を超えてから資格を取る人も、多くはないがいないわけじゃない』
即答することはできなかった。
確かに理学療法士は魅力的だ。けがに苦しみ続けた自分にしかできない仕事があるような気もした。しかし学校に通えば3年、ないしは4年ほど、また楓たちに迷惑をかけることになる。そんなことができるはずもなかった。
「ありがとうございます。その言葉だけでもうれしいです。ちょっと考えてみます」
力なくそう言って、涼は電話を切った。
久田の手前、考えてみるとは言ったものの、答えはすでに決まっていた。
妻と娘のために生きる。それが涼のこれからの人生なのだ。