地位におごることなく常に質素な生活

“メザシの土光さん“の愛称もあるように、家庭の食卓では庶民の魚であるメザシを好んで食した。とくに高齢期には、若い人のようにたくさん食べる必要はないと、一汁一菜が基本だった。野菜はナスやトマト、キュウリ、大根などを自らの手でつくるなどして、煮つけやみそ汁にして食べていた。経団連会長時代には夜の付き合いは一切やめ、代わりに朝食会を行ったことで注目された。

自宅は3つの部屋しかないボロ屋同然の平屋建てで、生活費は経団連会長時代でも月間10万円ぐらいであった。それ以前の東芝などの社長時代は、月3万円ぐらいで生活をしていた。収入の大部分は私学振興財団へ寄付したが、常に同財団へ最も多くの寄付をする人物であった。

女性の教育充実に力を注いだ母親の登美が、1942年に設立した橘学苑(中学・高校、現在は共学)の理事長・校長も務めることになった同氏は、同校にも収入の相当部分をつぎ込むなど次世代の教育に尽力した。

散髪は理髪店には行かず、家族に切ってもらい、洋服が古くなっても何度も継ぎ当てをし着ていた。家庭の普段着では、使わなくなったネクタイをベルト代わりにした。

朝の日課は、両親が日蓮宗の信者であったことから、幼いころから行っていた法華経の読経を朝5時に始めるのが日課だった。通勤は、経団連会長になっても、従来からのバスや電車の利用を継続した。

晩年に注力し大きく前進させた行財政改革も、この質素な生活と果敢な経営姿勢に多くの人が心酔し、土光氏をバックアップしたことが大きな要因だ。