土光敏夫氏は、現在のIHIなど2社の苦境状態を社長として立て直した後、財界の頂点である経団連会長となった。さらには、時の首相に懇請され行財政改革にも取り組み、NTT、JR、JTの民営化を打ち出すなど、華々しい経歴を持ちながら、私生活は質素そのものだった。今日、9月15日はそんな土光氏の誕生日である。

91歳まで全力で生き抜いた、その略歴は

岡山県御野郡大野村(現在の岡山市北区)で肥料仲買商を営む土光菊次郎・登美夫妻の次男として誕生した。しかし、けっして順調な人生とは言えなかった。岡山県立の旧制中学の受験に3度失敗し、やむなく岡山市内の私立関西中学(現在の関西高等学校)に進学した。さらにエンジニアを目指しての東京高等工業学校(現・東京工業大学)の受験でも一浪し、その間は代用教員として働きながら再度の受験に臨んだ。

大学時代もアルバイトをしながらの苦学生活を送った後、当時はまだ小さな企業であった東京石川島造船所(現・IHI)に入社した。

専門がタービンであったことから、より高度な技術を学ぶため1922年にはスイスに留学した。1936年に石川島芝浦タービンが設立された際には技術部長として出向し、1946年にはこの企業の社長に昇進する。

1950年に石川島播磨重工業(現・IHI)に復帰し、社長となり赤字状態の会社を見事に立て直す。1965年(昭和40年)になると、当時の東芝社長の石坂泰三氏に要請され、東京オリンピック後の景気後退で苦境にあった東芝の社長となる。経営難に陥っていた東芝でも、見事に再建を果たした。「社員はこれまでの3倍頭を使い、重役は10倍働け。自分はもっと働く」と宣言するなど、自らの経営哲学を説いた。東芝でも経営改革を進めた実績は高く評価され、1974年(昭和49年)には、78歳で第4代の経団連会長となる。

個人的には清貧を貫く一方、次々と経営改革を進めるその人望と手腕は高く評価され、折しも第二次石油ショック下で石油価格が高騰、庶民の生活も混迷を深めるなか、当時の首相であった鈴木善幸氏や後任の中曽根康弘氏に懇請され、1981年(昭和56年)には85歳で「第二次臨時行政調査会」の会長に、さらに1983年(昭和58年)には87歳で「臨時行政改革推進審議会」の会長に就任し、“増税なき財政再建”の旗印のもと巨大な既得権に切り込むなど行政改革に取り組んだ。国鉄、電電公社、専売公社の民政化を打ち出し、現在のJR、NTT、JTへと組織替えをする基盤をつくった。