名刺交換をすると「健康経営優良法人」と書かれたものを受け取ることがある。従業員の健康の維持・増進を経営目標に組み入れている企業を意味するもので、経済産業者が中心になって推進している。従業員の健康を大切にする企業は社内のモチベーションが高まったり優秀な人材が集まったりして、業績の向上が期待できると同省は訴える。
この健康経営優良法人の「ファイナンシャル・ウェルビーイング版」を立ち上げようという動きが、野村証券などの大手証券に見られる。従業員の資産形成を支援し、豊かな老後を迎えられるように配慮する企業は、健康経営優良法人と同様、優秀な人材が集まるなどして業績や株価の上昇が期待できるからだ。同時に、個人投資家の裾野拡大や金融リテラシーの向上も図れる。
内閣官房では金融庁や経産省の協力を得て「新しい金融戦略」を策定中で、夏にも公表される見込みだ。新戦略を巡っては片山さつき金融担当相だけでなく、自民党の資産運用立国議連も働き掛けを強めている。
同議連の中心メンバーで「ファイナンシャル・ウェルビーイング優良法人」に興味を示す議員もおり、企業による資産形成支援が新戦略のメニューに加わる可能性がある。
企業での資産形成支援、自助と公助を補完する共助に
国民の資産形成を進める施策は自助、公助、共助の3本柱だといわれる。自助はNISAやiDeCoなどを使って自己責任で取り組むもの、公助は厚生年金などの国の制度に頼るもの。そして共助は、企業や団体など個人と国の中間に存在するものを基盤とした支援策で、確定給付型の企業年金が代表的だ。
この3つを、バランスよく活用することが望ましい。全ての国民に自己責任での完結を求めるのには無理があるし、少子高齢化が深刻になるなかで国に頼り切るのも難しい。どうしても3本目の柱である、共助を太くする必要がある。
かつては大企業だけでなく、中小企業も同業種が集まって企業年金を設立し、従業員の資産形成の一翼を担っていた。しかし長引く不況の影響などで解散したり年金を減額したりするケースが相次ぎ、共助の衰退が著しかった。
ファイナンシャル・ウェルビーイング優良法人は、共助の動きを復活させる試みとみなすこともできる。企業年金では企業は資金の出し手であったが、ファイナンシャル・ウェルビーイングでは資産運用の機会や金融教育を提供することで貢献する。
マーケットは金融庁、企業経営は経産省 「高度に政治的な調整」が必要に
ファイナンシャル・ウェルビーイング優良法人を巡る動きで販売会社など金融機関が気を付けるべき点がある。政府側でこのテーマを扱うのが金融庁ではなく、企業経営に関する施策を所掌する経産省であるということだ。
実際、既存の健康経営優良法人も、健康問題であるにも関わらず厚生労働省ではなく、企業の経営問題であるとして経産省が所管している。また、同制度に類似するものに「健康経営銘柄」がある。前者は全企業が対象なのに対し、後者は東京証券取引所の上場企業が対象である点は違うが、こちらも同省が東証と共に制度を担っている。
さらに、女性活用が進んでいる企業を表彰する「なでしこ銘柄」も同省の所管だ。企業内部の問題は自分たちの管轄だという経産省の強い意志を感じる。
ファイナンシャル・ウェルビーイング優良法人も同省が当局での窓口となっている。ただし、投資家の裾野拡大や国民の金融リテラシーの向上は金融庁が掲げる「貯蓄から投資へ」の一丁目一番地だ。特に企業による従業員の資産形成の支援はマーケットと企業経営をつなぐもので、簡単にどちらかに振り分けられない。高いレベルでの調整が必要になる。
そこで存在感を発揮するのが資産運用立国議連とみられる。中でも経産省の政務官の職にある小森卓郎議員は金融庁の市場課長や総合政策課長の経験者で、同議連の設立発起人にも名を連ねる。先日も健康経営優良法人の表彰式でプレゼンターを務めたばかりで、議員事務所で面会した際には、ファイナンシャル・ウェルビーイングについても「一度、話を聞いてみたい」と話していた。
運用立国、個人やアセットオーナーに続き企業が焦点に
岸田政権で始まった資産運用立国の流れを振り返ると、当初の「資産所得倍増プラン」では個人の資産形成に重点が置かれていた。次に盛り上がったのは、企業年金などアセットオーナーの運用高度化だ。高市政権になってからは「企業も貯蓄から投資へ」とし、内部留保を活用した設備や技術への投資が奨励されている。
ため込んだ資金の有効活用を求めるのは当然だが、資産運用立国の観点でいえば、投資家の裾野拡大や金融リテラシーの向上という原点に返るべきではないか。頭打ちの感が否めないNISAの口座開設や資金流入を再加速させるためにも有効で、資産運用立国の高度化と位置付けることもできる。
他方、証券会社などのメリットはリテールよりも法人取引にありそうだ。ファイナンシャル・ウェルビーイング優良法人をきっかけに個人投資家が増えたとしても、そこから得られる収益が直ちに増加するわけではない。長い時間をかけてのことになる。一方、主幹事先の企業とのパイプを太くする施策とみれば効果が期待できる。
今回の件で目立つのは大手証券の動きだが、銀行も金利競争から距離を置いた法人融資のビジネスを展開するためにも、融資先のファイナンシャル・ウェルビーイングを支援することは十分に検討する余地がありそうだ。

