連休の中日だった今月15日(日)の早朝、日経新聞2面「直言」の記事を読もうとした私の目に飛び込んできたのは、インタビュー記事の本文ではなくプロフィール欄でした。そこには「ささき・たけし 1942年、秋田県生まれ。(中略)2001年~05年、東大学長。」と記載されていました。佐々木毅さん、秋田県――。その瞬間、私の脳裏に20余年前の情景が思い浮かんできました。(なお、私は埼玉県出身、慶大卒です)。
当時、50歳を過ぎた私は、銀行を卒業し、いわゆる第2の職場として銀行グループの資産運用会社勤務となりました。しかし仕事は思うようにはかどらず、苦戦の日々が続きました。
そんな矢先、秋田の老舗商店の女将とお話しする機会がありました。「この店は私の代限りで終わってもいいのです。東大の佐々木学長をご存知ですか。私の一人息子は秋田高校で佐々木学長と1、2の成績を競うなかでした。いまは県立病院の病院長です。」という雑談から始まりました。
お話ししているうちに、女将さんは私に「商売で一番大切な事は、お客さまに与えることです。」とおっしゃいました。女将は手にしていた風呂敷を広げ、「与えるのよ、そしてまた与えるのよ。」と続けました。風呂敷をよく見ると、四隅に「与」の文字があしらわれていました。「与」は、お客さまに見返りなどを期待せず、お客さまの期待を超える何かを出し続けることが、将来の信用につながることを私に教えてくれました。
私は帰京すると、その足ですぐに日本橋三越に向かい、四隅に「与」の文字を入れた縮緬(ちりめん)の風呂敷をオーダーメイドしました。どの銀行のコーポレートカラーにも合わせられるよう、赤・紺・水・緑・黄の5枚をつくりました。
そして、かばんの代わりに風呂敷に資料を包み、投資信託お取り扱い金融機関を訪問しました。面談に入ると、お客さまの関心はまず風呂敷に向かいました。例えば、「風呂敷はエコですね。」とか「その風呂敷の色は当社のコーポレートカラーと同じですね。」と、風呂敷が話のきっかけになりました。話題が四隅の「与」にたどり着くころには、お客さまとの距離が一挙に縮まる手ごたえを感じました。
私は、お客さまである投資信託のお取り扱い金融機関に、何を与え続けることができるだろうかと考えました。結論は、お客さまがお困りになっていることや資産運用会社に期待していることに対しておこたえすることでした。各社とも共通した悩みは人材育成でした。研修は人材育成に貢献できるものと考え、私は自社投資信託のお取り扱いの無い金融機関も含め、積極的に研修の機会をいただき実践し続けました。信頼される資産運用会社になれば、いつしか自社投資信託のお取り扱いが増え、また新規の投資信託お取り扱い金融機関に加わってくださるところも増えるのではないだろうかと考えました。
「与える」はお客さまが受け止めてくれて、初めて成立すると思います。しかし、「与える」だけでは信用されません。「与え続ける」には、お客さまの期待を毎回超えなければなりません。しかし、「与え続ける」先には、お客さまの信用を得られるという、皆さまにとってかけがいのない財産が待っています。皆さまがお客さまに「与え続ける」ために努力されることは、決して無駄にはならないのです。
「与」が私の人生を変えたというのは、決して大げさな言い回しではありません。新聞にくぎ付けになったのは、20余年前の女将さんの言葉がまるで昨日聞いた事のようによみがえったからでした。女将さんのこの言葉があったので、私はいまだに「与」の大切さを忘れないのかもしれません。