損失吸収力という概念
これらの基準等に出て来るのが、「損失の吸収」(loss absorption)という概念であり、これはわかりやすくいえば、「その発行体の銀行に巨額損失などの一定の事象が発生した場合、発行体である銀行に生じた損失を投資家に転嫁する仕組み」である。図表2は、銀行等金融機関の「持株会社」を前提に、損失吸収力を概観したものだ。
【図表2 損失吸収力のイメージ】
しかし、バーゼル規制の設計上、AT1債やT2には、「あらかじめ定められた条件を満たした場合に、普株転換や元本償却がなされる」という条件が含まれている必要がある。この「あらかじめ定められた条件」のことを「トリガー要件」と俗称するほか、「PON条項」などと呼ばれることもある。PONとは “Point of Non-viability” 、すなわち(その銀行が)「存続できないと金融規制当局が判断したポイント」で、日本の場合だとたとえば預金保険法第102条に定める「第2号措置」(預金等の全額保護)や「第3号措置」(一時国有化)等の認定がなされた場合には、AT1債やT2の元本削減が行われる可能性がある。
ちなみにAT1債の場合、PON条項は、これだけではない。CET1比率が「一定水準」を下回った場合にも、AT1は損失吸収のために普株転換または元本削減がなされる(この「一定水準」については発行体により異なる可能性があるが、「最低でも5.125%」とされている)。
つまり、直前の決算期まで、外部から見て経営が健全であったとしても、あるとき突然巨額の損失を計上し、CET1比率が「一定水準」を下回るときには、AT1債がいきなり無価値になってしまう可能性があるのだ。これなど、「発行体の会社が(倒産せず)事業を継続しているにも関わらず、いきなり社債の価値が無価値になる(かもしれない)」という意味で、CET1とともに「事業継続ベースの資本」 “Going Concern Capital” と呼ばれることもある。これに対しT2などは「事業破綻時に備える資本」という意味で “Gone Concern Capital” と俗称されることもある。
損失吸収力の逆転
もっとも、ここで首をかしげるのが、損失吸収力の逆転だ。バーゼルⅢテキスト上は、AT1債(やT2)については、一定の場合に「CET1」部分よりも損失吸収力が高くなってしまうのである。ちなみに「CET1」とは「普通株式等Tier1資本」であり、会計上の株主資本や評価差額の部(その他の包括利益)等に相当し、会社法制上、本来ならばAT1債やT2などよりも「損失吸収力」が高くなければおかしいはずだ。しかし、バーゼルⅢテキスト等の条項に照らすと、CET1部分よりも先に、AT1債やT2に損失が発生することがあり得ることは、当初から指摘されていた。AT1債やT2の損失吸収条項が強すぎるからだ。
実際、今回のクレディ・スイスのケースでも、株式とAT1債の間で損失負担順序の逆転が生じてしまった。これに関するFINMAの3月19日付の説明によれば、クレディ・スイスのAT1債償却の「トリガー」となったのは「スイス政府のクレディ・スイスに対する臨時支援の決定」であり、「CET1が5.125%を割り込みそうになったこと」ではない。すなわち、同じ条件でT2についても償却が決定されていたとしても不思議ではないでのある。
T2やTLACへの影響は?
この点、唐突なAT1債の償却は市場に驚きをもって迎えられたが、じつは隠れたテーマは、「T2やその他TLACへの影響」だろう。FINMAが3月23日に公表した「追加説明」によれば、償却 “write down” の対象となるのはAT1債のみであり、T2については保全される、などとしているが、クレディ・スイスの場合にT2が保全されたのは「偶然」と見るべきであろう。FINMAは「臨時支援の決定がAT1償却のトリガーを引いた」と説明しているため、同じトリガーでT2償却のトリガーを引くこともできたはずだからだ。さすがにスイス当局もT2の償却までは決断できなかっただけのことではないだろうか。
また、「その他TLAC」に関しては、本来、単なる「損失吸収力の一部」であって、「資本」ですらない。さすがにT2や「その他TLAC」にまで損失を負わせることになれば、全世界のT2、TLAC市場は大混乱に陥りかねない。
ただ、バーゼルⅢテキストの公表からまだ12年少々しか経過していないなかで、「いかなる場合にAT1やT2が償却できるか」に関しては、各国規制当局としても実務の積み重ねや市場との対話、意思疎通が十分にできているとは言い難いのも事実である。そのように考えると、今回の「T2非償却」を、「T2はよっぽどのことがない限りは償却されない」という意味で受け止めることもできなくはない。
スイス当局はクレディ・スイスの事業継続を重視したというのがFINMAの言い分だが、たしかにまずは「ゴーイング・コンサーン資本」であるAT1がバッファーになってくれれば、「事業破綻資本」であるT2、資本ですらない「その他TLAC」にまで累が及ぶことはない。「いざというときに当局は事業継続を優先し、事業破綻を避けることを重視する」という慣行が定着すれば、AT1のリスク・プレミアムが拡大する反面、T2や「その他TLAC」の市場は安定していくのかもしれない。