宏隆の再出発

夜、宏隆が帰宅すると、リビングには茉莉が1人ぽつんと座っていた。陽菜はすでに眠っているらしく、家の中は静かだった。

「茉莉、少し話してもいい?」

緊張気味に切り出すと、茉莉は手にしていたスマートフォンを伏せた。

「昨日の続き?」

「うん。ちゃんと謝りたくて」

向かいに座ると、宏隆は大きく息を吸った。

「賞与がないことは、入社前から知ってた。それなのに、給料が下がるとしか言わなかったのは、わざわざ説明しなくても分かるだろうって決めつけてたからだ。俺には小さい出版社なら珍しくない条件に思えてしまったから……」

茉莉は黙って宏隆を見ている。

「でも、賞与のあるなしは茉莉にとっても大事な情報だ。俺にとって当たり前でも、伝えるべきだったと思う。きちんと話さなくて、本当にごめん」

茉莉の表情はすぐには緩まなかった。

それでも、昨日とは違い、黙って耳を傾けている。

「それと、謝ることはほかにもある。転職してから、料理も洗濯も、陽菜の送り迎えも、ほとんど茉莉に任せてた。仕事を覚えるまでは仕方ないって、自分に都合よく考えてたんだと思う」

帰れば夕食があり、風呂が沸いていて、洗濯物も畳まれていた。宏隆は感謝しながらも、その状態が続くことを疑いもしなかった。

「転職を認めてもらったことに甘えてた。茉莉が支えてくれるのを、いつの間にか当然だと思ってたんだ」

しばらくして、茉莉が小さく息を吐いた。

「ボーナスがないのは、やっぱり不安だよ。昨日も話したけど、陽菜にはこれからお金がかかるし、家だって買いたいでしょ」

「うん」

「でも、腹が立ったのはそれだけじゃなかった。宏隆はやりたかった仕事をして、毎日充実してる。でも私は、仕事をしながら家のことも増えて……宏隆の夢のために、私ばかり頑張ってるような気がしてたの」

作家に問われた言葉が、宏隆の胸によみがえった。こうして本人の口から聞いて、ようやく自分が何を見落としていたのか実感できた。

「ごめん。これからは変わるから」

「そうだね。お金のことも家事の分担も、ちゃんと話し合って決めよう」

それから2人は家計簿を開き、賞与がない前提で貯蓄計画を組み直した。陽菜の教育費と、いつか家を買うための資金を分け、毎月無理なく積み立てられる額を決めた。今後は、家計に関わることを互いの判断だけで済ませず、必ず共有することも約束した。家事と育児については、宏隆が毎朝の保育園への送りを担当することになった。朝食後の食器の片づけと洗濯、陽菜の持ち物確認も宏隆が受け持ち、休日は料理をする。帰宅時間の読めない迎えや平日の夕食は無理に固定せず、早く帰れる日はその都度引き受けることにした。

「じゃあ、一旦これで」

「うん、任せて」

 

数日後の朝、宏隆は陽菜の手を引いて家を出た。

「パパ、きょうはね、おえかきするんだよ」

「そうなんだ。何を描くの?」

「えっとね、ママとパンダと、おっきいわんちゃん! あ、あとパパも!」

得意そうに指を折って答える陽菜に苦笑いしながら、宏隆は歩幅を合わせて歩いた。朝の光の中、2人の影が並んで地面に伸びていた。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。