<前編のあらすじ>

宏隆は32歳で未経験ながら出版社へ転職し、念願だった編集者の仕事に就いた。給料は下がったものの、大きなやりがいを感じていた。妻・茉莉には反対されたが、何日も話し合った末に転職の了承を得ていた。

しかし転職後、宏隆は仕事に没頭するあまり帰宅が連日深夜になり、娘・陽菜が寝た後に帰る生活が続く。家では茉莉が家事や育児を担い、宏隆はその状況に感謝しつつも、どこか当然のように受け取っていた。

そんなある日、茉莉が宏隆の会社に賞与制度がないことを知り激怒する。家計に関わる重大な条件を共有していなかったことで、夫婦のすれ違いは一気に表面化してしまう。

●前編【【転職の誤算】念願の出版社勤務を叶えた夫に妻が激怒…家計直撃の“重大条件”

宏隆が向き合うべき現実

翌日の午後、宏隆は担当作家と駅近くの喫茶店で向かい合っていた。

柔和な顔つきの作家には、妻と成人した2人の娘がいるらしい。打ち合わせの合間に家族の話が出ることがよくあり、宏隆は彼に家庭的な印象を持っていた。

「この場面、主人公の思考がやや飛躍しすぎだね」

作家に指摘され、宏隆は手元のノートパソコンへ目を落とした。

「そうですね。前の場面に、迷っている描写を少し加えた方が……」

自分で言いながら、声に力がないのが分かった。

昨夜の茉莉との言い争いが、頭から離れない。資料を読んでいても、賞与制度がないなんて聞いていない、と訴えた茉莉の顔が浮かんだ。

「斎藤くん、今日はずいぶん上の空だね」

作家がふと原稿から顔を上げた。

「あっ、すみません。失礼いたしました」

「いや、私はいいんだけどね。何かあったの?」

宏隆は少し迷ってから、素直に話すことにした。

本来、作家の先生にするような相談ではないが、彼の人柄がそうさせたのだろう。

「実は昨晩、妻と喧嘩しまして」

「あらら。それはまたどうして?」

「うちの会社にボーナスがないことを、きちんと伝えていなかったんです」

宏隆は、事前に給料が下がると話していたことや、茉莉が夏のボーナスを貯蓄に回すつもりだったことを説明した。