見落としていた家庭の穴

作家は話を聞き終えると、ふっと笑った。

「なんだ、そんなことか」

宏隆は思わずむっとして眉を寄せた。自分の悩みを軽く扱われたようで、素直に聞き流せなかった。

「そんなことって……うちは小さい子どももいますし、お金に余裕があるわけではないんです」

「ああ、ごめんごめん。何も、金勘定が小さい問題だと言ってるんじゃないよ」

作家はカップを置き、宏隆を見た。

「斎藤くんが、奥さんはボーナスのことだけで怒っていると思い込んでいるからさ」

「ほかに何があるんですか」

「それを私に聞くのかい。まあいい。転職してから、君は家で何をしてる?」

突然話が変わり、宏隆は戸惑った。

「家では……いつも帰るのが遅いので、仕事を片付けながら夕飯を食べて、風呂に入ったら、すぐに寝てしまいます」

「その夕食は誰が?」

「料理は妻がしています」

「風呂を入れてくれるのは?」

「それも、ほとんど茉莉が」

「娘さんは保育園だったね。送り迎えはどうかな?」

宏隆はすぐに答えられなかった。

朝は茉莉に陽菜を任せて、さっさと出勤している。迎えの時間には会社にいることが多い。陽菜の連絡帳も、最後に開いたのがいつだったか思い出せなかった。

「どちらも、妻です」

口にした途端、自分が家庭で何を担っているのか分からなくなった。

作家は優しく諭すような口調で続けた。

「編集者として懸命に働いているのは分かる。でも、仕事を頑張っているから、家のことは奥さんに任せていいとは限らないだろう」

宏隆は黙り込んだ。

「私も娘たちが小さいころは、働いて給料を持ち帰りさえすれば、父親の役目は果たしていると思っていたよ。妻に言われるまで、自分が家で何もしていないことに気づかなかった」

作家はそれ以上、何も言わなかった。

沈黙の中、宏隆は改めて転職後の生活を振り返った。

自分は憧れていた仕事に就き、忙しささえも楽しんでいた。一方で茉莉は、夫の給料が下がることを飲み込み、自分の仕事を続けながら、料理も洗濯も陽菜の送り迎えもしている。帰宅すれば夕食と温かい風呂があり、洗濯物は畳まれている。それを当然のように受け取ってきた。

問題は、ボーナスについて説明しなかったことだけではない。宏隆はようやく、負担を茉莉1人に引き受けさせていたことに気づいた。

「先生、ありがとうございます。打ち合わせが終わったら、妻に連絡します」

「それがいい」

作家はにっこりと頷き、原稿へ視線を戻した。再び手元の画面を見ると、今度は滑らかに文章が頭に入ってきた。