制度の正しさと気持ちのずれ
夜、美波は夕飯の片づけを終えると、ダイニングテーブルの上にスマホを置いた。娘は風呂上がりにひとしきり騒いだあと、ようやく寝ついたところだった。静かになった部屋で、昼間に聞いた説明を頭の中でもう一度なぞる。
「それで、なんでか聞けた?」
夫が冷蔵庫から麦茶を出しながら言う。
「聞けた。計算ミスじゃなかった」
「じゃあ、本当に払うのか」
「そう。4月分の保険料は満額で、給料は1日分だから、差し引きで足りなくなるんだって」
「そんな仕組みあるんだな」
「私も今日初めて知った」
夫は向かいに座り、スマホの明細をのぞき込んだ。
「正しい説明なんだろうけど、聞くと余計に変な感じするな」
「そうなの。間違ってないのは分かるのに、もやもやする」
そう言ってから、美波は小さく息を吐いた。
怒るほどのことでもない。生活が立ち行かなくなる額でもない。それでも、復帰して最初の給料で、こちらが不足分を払うはめになるとは思っていなかった。
「振り込む?」
「うん。忘れるのも嫌だし、今やっちゃう」
スマホを操作し、会社指定の口座番号を入力する。
「払いたくないって顔してる」
「そりゃそうでしょ。こんな送金、人生で想定してなかった」
夫が笑いをこらえながら言う。
「それは確かに」
「笑いごとじゃないんだけど」
「分かってる。でも、ちょっとすごい体験ではあるなーって」
「それはそうだけど」
美波もつられて口元をゆるめた。
タップしてしまえば、手続きはあっけなく終わった。画面に振込完了の表示が出る。すっきりしたわけではないが、少なくとも宙ぶらりんではなくなった。
「あーあ、次の給料日早く来ないかなー」
「まだ1カ月先だな」
「知ってる」
美波はコップの麦茶をひと口飲み、スマホを伏せて伸びをした。
シンクには洗ったばかりの哺乳瓶が逆さに立ち、イスの背には夫の脱いだシャツが掛かっている。夜のリビングには、静けさがゆっくり広がっていった。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
