1年ぶりの通勤と職場復帰

4月末日、美波は久しぶりに通勤用のバッグを肩にかけ、玄関の鏡の前で一度立ち止まった。ジャケットの袖を引き、髪を耳にかけ直す。それだけのしぐさが妙にぎこちない。

「じゃあね、ママお仕事行ってくるからね」

娘を保育園に預けたあと、1人で駅まで歩く道も、以前は当たり前だったはずなのに落ち着かなかった。電車の中で周囲の会話が耳に入るたび、自分が長く家の中にいたことを思い出す。

「おはようございます」

会社のフロアに入って、最初に気づいたのは独特の空気だった。空調の乾いた風と、コピー機の熱を含んだ匂い。懐かしいはずなのに、1歩足を踏み入れた瞬間、心臓がひとつ大きく跳ねた。

「柴田さん、おかえりなさい」

真っ先に声をかけてきたのは、隣の席の佐伯だった。明るい声に、美波は肩の力を抜きながら頭を下げる。子どものいない場所で、身内以外と話をするのは、ずいぶん久しぶりだ。

「お久しぶりです。ご迷惑かけました」

「何言ってるんですか。戻ってきてくれて助かりますよ」

「まずは慣れるところからでいいからね」

別の同僚もそう言って笑い、美波は思っていたより自然に席についた。

もっと気まずい雰囲気を想像していたので、それだけで少し救われる。

ところが、パソコンを開いた途端、画面には見慣れないログイン画面が表示された。記憶にある社内システムとは、色も配置も違っている。美波は思わず画面の前で固まった。

「あれ、変わってる」

「あー、それ去年の秋に入れ替わったんです」

「そっか……こりゃ大変だ」

美波が苦笑すると、佐伯がイスを寄せた。

「大丈夫です。最初、私も全然分からなかったので」

「それ、安心していいのか迷うんだけど」

「まあ少なくとも、柴田さんだけじゃないってことです」

2人で画面を見ながら、パスワードの再設定や申請画面の開き方を1つずつ確認していく。新しい操作に戸惑うたび、美波は自分だけが遅れている気がしたが、横で佐伯が「そこはみんな1回はつまずきます」などと言うたび、気持ちがほぐれた。

 

結局午前中は挨拶回りと簡単な引き継ぎで過ぎた。昼休み、美波は給湯室で紙コップにお茶を注ぎながら、小さく息をつく。

「疲れました?」

背後から声をかけられ、美波は振り向いた。

「まだ何もしてないのに、変な緊張だけしてる」

「復帰初日なんてそんなもんですよ」

「でも、みんなが思ってたよりずっと普通でよかった」

帰り際、机の上を整えながら、自分は今日一日、ちゃんとここにいたのだと思った。達成感というほど派手ではない。ただ、止まっていた時間が少しだけまた動き始めたような感覚が、たしかに胸に残った。